調査研究コラム

#032 カマド燃焼部の底面~下部に敷かれた土器 丹治 篤嘉

私が前回書いた調査研究コラム(註1)では、古墳時代中期後半~平安時代の竪穴住居跡に付設されるカマドの燃焼部(※火を焚く場所)から出土する遺物の出土状況について触れました。今回も、前回同様、カマドから見つかる遺物に関する話です。具体的には、カマド燃焼部の底面~下部に土器が敷かれた事例について述べてみたいと思います。

 対象とするのは、発掘調査時の様々な状況証拠から、住居機能時の段階にはすでに敷かれていたと判断されるもの、つまり、当時の人々が住居を構築する際に、何らかの目的をもってカマド燃焼部の底面~下部に土器を敷いたものです。カマドの廃棄に伴って置かれたものは対象外です。

 さて、これまで福島県教育委員会が調査してきた遺跡の中で、カマドが確認された竪穴住居跡は1,737軒です(註2)。このうち、上記に該当するのは、わずか9軒で、あまり認められない事例であることがわかりました(註3)。註3文献では、この9軒について詳細に検討し、土器が敷かれた目的について考えました。本コラムでは、以下に結論を要約しましたが、詳しく内容を知りたい方は、註3文献のPDFデータをご覧ください。

註3文献のPDFデータはこちら(5,972KB).pdf

カマド燃焼部の底面~下部に土器が敷かれた事例を、その特徴から以下の4つのグループに細分しました。すなわち、燃焼部底面全体に土器片を敷く「大船迫Aタイプ(図1)」、燃焼部底面に掘られた溝に蓋をするように比較的大型の土器片を敷く「沼平タイプ(図2)」、燃焼部底面~下部にかけて暗渠とする溝に縦に半裁した土師器甕が土とともに埋め込まれる「越田和タイプ(図3)」、燃焼部掘形や燃焼部下の壁溝等の下部構造に土器小片が敷かれる「東作田Aタイプ(図4・5)」、です。

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図1 南相馬市大船迫A遺跡5号住居跡

#32_02.jpg図2 須賀川市沼平遺跡13号住居跡

#32_03.jpg図3 三春町越田和遺跡7号住居跡

#32_04.jpg図4 南相馬市大船迫A遺跡16号住居跡

#32_05.jpg図5 郡山市東作田A遺跡1号住居跡

これらの事例は、いずれも概ね8世紀~9世紀前半の比較的限られた時期に、丘陵斜面という限られた立地に構築されています。そして、カマド燃焼部の底面~下部に敷かれた土器は、壁溝や住居跡内を斜面下方に延びる溝、そして、住居跡の一角から外に延びる溝=外延溝につながっていることから、除湿・排水の目的があったものと考えました。換言すれば、丘陵斜面という雨水や湧水の影響を受けやすい立地だからこそ、カマド燃焼部の基礎をつくる際に土だけでなく土器片を補強材として敷き、除湿・排水対策としたと考えました。このように考えた根拠の一つを示すと、南相馬市大船迫A遺跡16号住居跡(図4)における、カマド脇の壁溝に堆積した土層の観察結果です。すなわち、下層が地下水に浸されていたことを示すグライ化した砂質土で、上層は激しい湧水のためドロ状を呈していたと報告されており(註4)、図4の事例は壁溝に排水の機能があったことを示す好例と考えられます。そして、この壁溝と連続して構築されているカマドに敷かれた土器及び外延溝にも同様に、水対策の考えがあったとみるのが自然と思われます。

 なお、外延溝の機能に関しては、雨水や湧水等の自然水の排水ではなく、手工業に伴う産業排水とする考えがあります(註5)。私も、註3文献で、壁溝~外延溝には自然水の排水だけでなく、産業排水という目的があることを指摘しました。しかし、外延溝が多く確認されている南相馬市割田遺跡群の竪穴住居跡について検討した際、製鉄遺跡に構築されているという理由以外に、手工業に伴う痕跡が積極的には確認されなかったため、慎重な判断が必要とも考えました(註6)。これに関しては、桐生直彦さんが指摘するように、今後も分析検討が必要です(註7)。

 さて、註3文献では、福島県教育委員会が調査した事例だけ扱いましたが、ここで一つ郡山市教育委員会が調査した事例をご紹介いたします。図6は、郡山市西前坂遺跡8号住居跡(註8)です。時期は9世紀前葉で、カマドの燃焼部の下部にも壁溝があり、その上に土師器甕・甑の破片を敷いています。今回は、細かい検討はいたしませんが(註9)、これはまさしく、先に示した図4と同じ状況で、興味深い事例といえます。

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図6 郡山市西前坂遺跡8号住居跡

私は、これまで発掘調査されてきた資料を再評価することが、今後の調査技術の進展につながると考え、検討してきました。ただ、その資料は、主に福島県教育委員会が調査してきたものに限られていました。それは、県内各市町村教育委員会の調査資料も対象とすると、扱うデータがあまりにも膨大なためです。しかし今後は、本コラムで触れたように、県内各市町村教育委員会が報告した調査資料についても少しずつ目を広げ、考察する材料を増やし、更なる検討を続けていきたいと考えています。

(註1)http://www.culture.fks.ed.jp/iseki/A05/f17.html
(註2)丹治篤嘉2010「カマド燃焼部における遺物出土状況の検討」『福島県文化財センター白河館研究紀要    2009』
(註3)丹治篤嘉2013「カマド燃焼部の底面~下部に敷かれた土器」『福大史学 第82号』福島大学史学会
(註4)福島県教育委員会 1995 「大船迫A遺跡」『原町火力発電所関連遺跡調査報告Ⅳ』
(註5)桐生直彦2007「総論 注目されるカマドをもつ竪穴建物」『考古学ジャーナル№559』ニュー・サイエンス社、山川純一2007「竪穴建物に伴う外延溝-古代多賀城周辺域の在り方-」『土壁 第11号』考古学を楽しむ会
(註6)丹治篤嘉2013「南相馬市割田遺跡群における竪穴住居跡の特徴」『福島県文化財センター白河館研究紀要2012』
(註7)桐生直彦2015「排水溝をもつ竪穴建物」『季刊 考古学 第131号』雄山閣
(註8)郡山市教育委員会1993『西前坂遺跡 第2次調査報告』
(註9)郡山市西前坂遺跡の竪穴住居跡については、全体的な検討を考えているので、改めて論じる予定です。
※挿図の出典は、註3文献をご参照ください。
※『発掘調査の手引き-集落遺跡発掘編-(文化庁文化財部記念物課2010)』では、竪穴住居跡は「竪穴建物 跡」、外延溝は「排水溝」と呼称していますが、本コラムでは、註3文献の表現をそのまま使用しています。