調査研究コラム

#094 天神谷地遺跡出土の黥面表現を持つ大型土偶について 神林幸太朗

はじめに

 令和5年度に当財団が実施した南相馬市の天神谷地遺跡の発掘調査では、縄文時代後〜晩期の集落跡が確認され、膨大な量の縄文土器をはじめとした多種多様な遺物が出土しました。この成果は令和7(2025)年3月に刊行された発掘調査報告書にまとめられています(福島県教育委員会2025)。

今回紹介する天神谷地遺跡の大型土偶については、非常に注目される資料でありながら、調査の終盤になって出土したこともあり、公開する機会が限られてしまいました。今回、天神谷地遺跡の発掘調査報告書が刊行されましたので、この土偶の特徴について紹介したいと思います。

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写真1 天神谷地遺跡出土の大型土偶

1.天神谷地遺跡の概要

 天神谷地遺跡は福島県の浜通り地方に位置する、南相馬市原町区上北高平字天神谷地・貝餅地内に存在する遺跡です。遺跡の存在は古くから知られており、昭和3(1928)年に東京帝国大学から発行された『日本石器時代遺物発見地名表』には本遺跡の記述がみられます。また地元の研究者である竹島國基氏が採集した資料(通称竹島コレクション)には、昭和271952)年と昭和291954)年に採集した記録が残されています。調査中に地元の人から聞き取った情報では、昭和30年代までは遺跡内の畑や田んぼを歩くと、たくさんの土器や石器を拾うことが出来たそうです。しかし、昭和40年代にほ場整備が行われてからは、遺物を採集することが出来なくなり、その後本格的な調査も行われていませんでした。

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写真2 天神谷地遺跡の空撮

2.発掘調査の成果

今回の発掘調査は、東日本大震災の復興事業の一環として計画された主要地方道原町川俣線の整備に伴う記録保存調査として令和5(2023)年4~9月にかけて実施されました。調査の結果、縄文時代後~晩期にかけての竪穴住居跡1軒、柱穴115基、土坑8基、土器埋設遺構7基、性格不明遺構2基のほか、当時の廃棄場とみられる遺物包含層2箇所を確認しました。特に遺物包含層からは、縄文土器を中心に、製塩土器・土偶・土製品・石器・石製品・骨角製品・動物骨・炭化種実類などが、整理箱で約300箱出土しました。遺跡の面積に対して、非常に限られた範囲の調査でしたが、非常に多くの遺物・遺構が確認されてことから、この地域の拠点的な集落跡であることが明らかとなりました。またわずかですが、縄文時代中期や弥生時代前期の土器片が出土していることから、今回の調査地点の周辺に、これらの時期の活動拠点があった可能性が考えられました。

 

3.大型土偶について

  • 出土状況

 今回紹介する大型土偶は遺物包含層から出土しました。この遺物包含層は、縄文時代の後期から晩期にかけて不用となったものを捨てた廃棄場とみられ、この土偶の周辺からも多数の縄文土器や製塩土器、石器類が出土しています。土偶は顔を下にした状態で出土しました。出土した時点では全体の特徴が良くわからなかったので、あまり気にかけていませんでしたが、必要な記録をとっていざ土偶を取り上げてビックリ!! とても立体的な顔の表現に発掘現場は大騒ぎとなりました。特に顔全体にイレズミのような条線が施されており、縄文時代の終わり頃に作られた「黥面土偶」(げいめんどぐう)の可能性が考えられました。

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写真3 土偶の出土状況

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写真4 土偶を取り上げてビックリ! 

(2)「黥面土偶」とは

 顔にイレズミやヒゲのような条線が施された土偶について、黥面(げいめん)土偶や有髭(ゆうぜん)土偶と呼ばれています。これは明治時代に盛んだった人種・民族論争のなかで生み出された用語です。こうした土偶が本格的に研究されるきっかけとなったのは、永峯光一氏による長野県氷遺跡出土土偶の研究です。この研究によって、顔にイレズミやヒゲのような表現がなされる土偶が縄文時代晩期終末に中部・東海地域で認められる事が明らかとなりました(永峯19571977)。また、こうした特徴の土偶が、続く弥生時代の土偶形容器(内部に骨を納める容器)につながっていくことが指摘されました。また昭和601985)年には荒巻実氏・設楽博己氏によって体系的な研究が進み、関東・東北地方でもこうした土偶が作られていることが明らかになりました(荒巻・設楽1985)。その後も設楽博己氏を中心に、この種の土偶の研究が進められています(設楽19981999)。

 これらの研究から「黥面土偶」の特徴として以下の点が指摘されています。

  • 円形・楕円形・栗形・扇形の顔面を持つ。
  • 眉と鼻がT字状に連結して隆起しているものが多い。
  • 目と口を抉って表現している。
  • 額・眉の下・頬・口の周辺などに数条の沈線文を左右対称に施す。

それでは、天神谷地遺跡の大型土偶はどのような特徴を持っているのでしょうか。次からは天神谷地遺跡の土偶の特徴を詳しく見ていきたいと思います。

(3)天神谷地遺跡の土偶の特徴

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写真5 土偶3D画像(色情報抜き)

遺存状況と大きさ 出土した土偶は首から上にあたる部分のみで、その他の部位は確認されていません。作りは中実で、大きさは遺存長8cm、幅11cm、厚さ3.2cmと、土偶の顔としてはかなりの大きさです。おそらく全体が残っていたなら、非常に大きな土偶であったと思われます。県内における同時期の大型土偶としては三島町小和瀬遺跡の土偶が有名です。この土偶は全長24.7cmほどあり、天神谷地遺跡の土偶も本来はこれぐらいの大きさがあったのかもしれません。なお黥面土偶の顔の大きさを検討した研究と比較しても(鈴木・小林2013)、天神谷地遺跡の土偶は大きな部類に入るものとみられます。

顔面各部の表現 顔の各部は細い粘土紐や粘土粒を貼り付けて表現されています。まず顔の中央には眉と鼻をそれぞれ直線的な粘土紐をT字状に連結させて表現しています。特に鼻は写実的となっており、下面には細い刺突によって鼻腔が表現されています。目と口は小さな粘土粒を貼り付けて、中央を押し潰しまたは抉り取って表現しています。全体として立体的な顔の表現がなされている点が特徴的です。このような特徴のうち「T字状に連結し隆起する眉と鼻」の表現については黥面土偶の特徴だけでなく、県内の晩期土偶の特徴として広く認められています(山内1992)。一方で目と口の立体的な表現方法については「黥面土偶」の特徴とは大きく異なっています。このような表現は東北地方の晩期後半の土偶にみられる表現となっています。このように顔面各部の表現は「黥面土偶」とは差異が目立つものの、東北地方の土偶と比較すると多くの共通性が認められます。

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図1 顔・首元の表現

耳飾り・首元の装飾 顔の左右には耳と思われる部位が作り出されています。そして下部の耳たぶにあたる部位には耳飾りを装着したとみられる表現が認められます。左耳側には小さな粘土粒を貼り付け、中央に小さな貫通孔が開けられています。右耳側は粘土粒が剥離していますが、小さな貫通孔は開けられています。本来は両耳とも耳飾りを装着していたとみられます。また首元には粒状のものが連続して貼り付けられていたかのような痕跡が認められます。これは首飾りのようなものを付けている表現の可能性があります。このような装飾表現についても東北地方の晩期土偶に多く認められる特徴となっています。

髪と竪櫛表現 顔面の反対側の裏面には、頭部とみられる表現がなされています。まず頭部の輪郭に沿って粘土紐を貼り付けた表現がなされています。これは結った髪を表現しているとみられます。同じような結髪表現は南相馬市羽山遺跡、大熊町道平遺跡出土土偶に認められます。また上部2箇所には頭頂部から結髪部にかけての貫通孔が穿たれており、髪飾りのようなものを装着していたのかもしれません。

また頭部中央には8本の櫛歯と「U」字状の頭部からなる竪櫛が表現されています。これはおそらく結った髪を竪櫛で留めている様子を表しているものとみられます。同様な表現がなされた土偶は今のところ見いだせていません。しかし土偶に表現された竪櫛の形状は、三島町荒屋敷遺跡や宮城県山王囲遺跡から出土した晩期の漆塗櫛との共通性を窺わせます。

なお、これらの髪や櫛の表現は片側がすべて欠損しています。良く表面を観察すると粘土が剥がれた痕跡が認められます。前述した耳飾りも片方だけ剥離していることから、おそらく土偶の片側だけ意図的に装飾を剥いだものと思われます。

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図2 頭部の表現

黥面表現 そしてこの土偶の最大の特徴は顔全体に施された「黥面」(げいめん イレズミなどの表現)です。この表現は3本1単位とみられる鋭い櫛歯状の工具によって施されています。顔面上半部は縦方向の条線を基調とし、眉の外側から目の周辺にかけては「U」字状に縁どるように条線を施しています。一方で顔面下半部は横方向の条線を基本とし、口下半部は「ハ」の字状に施されています。また両頬にあたる部位には条線が施されずに、三角文状の表現がなされています。

 このような黥面表現については、先行研究を参照すると、黥面土偶の成立期に位置付けられる栃木県後藤遺跡例(上野川1982)、栃木県三輪仲町遺跡(設楽1998)、千葉県池花南遺跡例(渡辺1991)などの黥面表現に近いとみられます。特に顔面上半部は池花南遺跡例、顔面下半部三輪仲町遺跡例とほぼ同じとみられます。また三角文状の表現は施文部位が違うものの、後藤遺跡例にみられます。

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図3 関東地方の黥面土偶

 上述のものはいずれも関東地方の事例ですが、東北地方でも「黥面土偶」とみられる土偶がいくつか出土しています。宮城県梁瀬浦遺跡(宮城県庁文化財保護課1976)、福島県新地町三貫地遺跡(渡辺・大竹1981)、南相馬市羽山遺跡(森2011)、浪江町百間沢遺跡(吉野1987)、楢葉町上田郷Ⅵ遺跡(福島県教育委員会1999)などで出土しています。これらを比較してみると梁瀬浦遺跡例・三貫地遺跡例・羽山遺跡例などは眉上や輪郭部などに条線を施しており、天神谷地遺跡の土偶とは少々表現が異なっています。一方で百間沢遺跡例は目と思われる部位を縁取るように湾曲する条線や、顔面下半部の横位の条線、頬付近の三角文など、文様の配置が共通しています。また上田郷Ⅵ遺跡例についても、顔面上半部は縦方向に、顔面下半部は横方向に密に条線を施しており、基本的な施文パターンは共通しています。

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図4 東北地方の黥面土偶

 このように天神谷地遺跡の土偶の黥面表現は、成立期とされる関東地方のものや、東北地方でも浜通り地方の事例に類似する傾向が指摘できます。しかし、これらの黥面表現は細い一本引き条線によって施されるのに対し、天神谷地遺跡の土偶は櫛歯状の工具により、条線もはっきりし、非常に丁寧かつ精緻に仕上げられており、これが本土偶の黥面表現の大きな特徴といえると思います。

4.まとめ

 このように天神谷地遺跡の土偶は、福島県の縄文時代晩期の土偶としての特徴と、いわゆる「黥面土偶」としての特徴を併せ持った土偶であることが分かりました。また黥面表現の様相から、黥面土偶成立期の特徴を有していることが窺えました。天神谷地遺跡の土偶の時期については、土偶の周辺から縄文時代晩期後半の土器(大洞AA´式に相当する土器)がまとまって出土しており、これらと同時期のものとみられます(図5)。先行研究による黥面土偶の成立時期については、おおむね縄文時代晩期後葉とされており、これらの研究とも矛盾しません。

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図5 土偶と同時期とみられる土器

 これらのことから、天神谷地遺跡の大型土偶は、縄文時代晩期後半に東北地方の土偶づくりを基盤としつつ、そこに関東地方の土偶の要素を取り入れて製作されたものと思われます。既知の黥面土偶に比べ、黥面表現が精緻な点も、遮光器土偶以来の立体的かつ精緻な表現の土偶づくりを踏襲して作られたからだと考えられます。また、頭部に表現された竪櫛の表現も、この土偶の大きな特徴です。表現された竪櫛の形状は同時期の漆塗櫛の特徴と共通することも判明しました。このように黥面表現・装着した耳飾り・首元の装飾表現・結髪表現と竪櫛など、当時の習俗を考えるうえでも本土偶は重要な資料になると思われます。

 現在このコラムを執筆している最中に、天神谷地遺跡の出土品を福島市の遺跡調査部から、白河市にある福島県文化財センター白河館(まほろん)に移管する作業が進められています。移管された後にはまほろんで展示され、県民のみなさまにご覧いただく機会があるかと思います。その際はぜひ様々な角度からこの土偶を観察していただき、この土偶の魅力を感じて頂ければと思います。

 

(本コラムは天神谷地遺跡発掘調査報告書(福島県文化振興財団2025)の第3章総括部分を一部改変して執筆しました。天神谷地遺跡の発掘調査報告書は、県内各地の公共図書館で閲覧できるほか、国立奈良文化財研究所が運営する「全国文化財総覧」においてPDFで閲覧することが出来ます。)

天神谷地遺跡

現地公開資料  (https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/132114

発掘調査報告書 ( 公開前  ) 

 

参考文献

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