調査研究コラム

#023 解題 福田 聖 著 『低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革』上 及川良彦

現在、東日本の弥生~古墳時代の考古学研究者の中でも、随一の原稿量をはかるのが福田聖氏(以下敬称略)である。発掘調査でも30年以上もの経験をもつベテランである。福田はかねてよりの課題である、低地の「周溝墓」の問題に取り組み、36歳のときに『方形周溝墓の再発見』を一書とした。以後、50歳の節目の年まで、引き続きこの問題に取り組み新たな視点と展開を示してきた。そして300頁をこえる大部のものを再度上梓した。なお、本書は2013年2月に早稲田大学文学学術院に提出した博士学位論文をベースとしている。

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『低地遺跡からみた
関東地方における古墳時代への変革』

(福田 聖:著)

以下はその目次である。

【目次】
第1章 はじめに……………………………………………………新稿
 第1節 古墳時代研究の新たな視点と研究方法
 第2節 方形周溝墓と周溝持建物認定の基準
第2章 荒川低地南部の低地遺跡
 第1節 旧入間川流域
 第2節 三ツ和遺跡
 第3節 鍛冶谷・新田口遺跡
第3章 荒川低地北部の低地遺跡
 第1節 鴨川・入間川・市野川流域
 第2節 元宿遺跡
 第3節 荒川低地北端・笠原低地・熊谷低地
第4章 妻沼低地・加須低地の低地遺跡
 第1節 妻沼低地南部
 第2節 妻沼低地西部・志戸川扇状地・女堀川扇状地……………………………新稿
 第3節 加須低地………………………………………………………………………新稿
第5章 東京低地の低地遺跡 
 第1節 東京低地東部…………………………………………………………………新稿
 第2節 旧入間川右岸  第3節 豊島馬場遺跡……………………………………新稿
第6章 周溝の性格と機能
 第1節 方形周溝墓と「周溝」の覆土・出土状況(1)
 第2節 方形周溝墓と「周溝」の覆土・出土状況(2)
 第3節 関東地方における「周溝」研究の経緯と課題
 第4節 「周溝」と「周溝持建物」の様相…………………………………………新稿
 第5節 周溝区画内の建物形式………………………………………………………新稿
 第6節 周溝持壁立式平地建物の性格………………………………………………新稿
 第7節 周溝持建物を建てた人々……………………………………………………新稿
 第8節 建物跡ではない「周溝」……………………………………………………新稿
 第9節 小 結
第7章 低地遺跡から見た古墳時代への変革
 第1節 周溝持建物の地域差と関東地方への導入の意義…………………………新稿
 第2節 結 論

 本書は『方形周溝墓の再発見』(2000 以下前著とする)以後発表した既存の13本の論文に、新たな11本を新稿として加え、一書としたものである。以下各章ごとにみていこう。

第1章 第1節1では、古墳時代研究のなかでも、その研究の中心が「古墳」そのもの、あるいは「古墳」を作る側の歴史を明らかにしようとする傾向があるのに対し、福田はそのほか大多数を占める一般社会構成員の歴史を知ろうとする内容になっていないと批判する。そして、支配する側、支配される側、あるいは中央と地方といった二項対立の枠組みではなく、その枠組みを外した研究が望まれるとする。そしてまず、地域における古墳時代像を描くために、各地における古墳時代初頭の文化要素(集落・墳墓といった社会制度から土器まで)に関する具体的な検討の「総合化」が必要とする。その中でも、こうした文化要素の中で具体的な検討の一つとして、「低地遺跡」の「周溝持建物」をとりあげる。なお、福田は従来「周溝を有する建物」「周溝を持つ建物」等の用語を使用してきたが、本書では基本として「周溝持建物」を使用する。

 福田は、関東地方における古墳時代開始期の最も大きな特徴は、本論で取り上げる「周溝持建物」が建物形式としてあらたに採用され、それを中心とした大規模集落が広く関東平野全体に展開される点にあるとする。古墳時代の幕開けに際して、あまり着目されてこなかったこの点を検討することにより、関東地方における古墳時代開始期の変革が、どのように行われたか、当時の社会の様相はいかなる状況であったかを明らかにすることが、本書の主眼とする。

 その方針は第1節2において述べられている。まず、弥生時代と比較した大きな変革は、外来系土器により多大な影響を受けた土器作り、碧玉製の玉作り、ガラス玉生産、井戸の造営などをあげる。こうした要素は、低地遺跡において顕著に認められるとする。つまり、それまでの弥生時代に比較して、低地への大規模な遺跡の展開が大きな特徴だとみている。そしてその中でも特に、関東地方の低地に展開する遺跡の特徴的に認められる、「周溝持建物」は弥生時代にまで認められなかった建物形式の採用として大きく評価する。

 一方、関東地方の低地遺跡の周溝墓とされてきたものの多くが、集落を構成するものであり、誤認であるという飯島義男や評者の主張に端を発し、その後の福田や長瀬出の再検討にもかかわらず、いまだにこうした認識は一般化されているとは言えない現状であるという。福田はこの現状を放置することなく、周溝を建物の施設として明らかにしようとする。加えて外来系の土器、玉類、木製品とこれらの組み合わせに注目する。さらに台地性の遺跡と低地性の遺跡についての比較を通じ差異を示すとともに、両者が補完関係で存在し、新たな古墳時代への幕開けとなると考える。そして、「低地遺跡」の検討を通じ、古墳時代社会への変革の様相を明らかにし、古墳時代における社会像を描くことを目的としている。

 第2節では、前著で示した、「周溝墓」と「周溝を有する建物」についての検討から、両者を弁別するための「目安」を設定していたが、本論ではこれを「基準」とする。「基準」にあたっては、(1)埋葬施設の検出、(2)盛土の遺存、(3)副葬遺物の出土、(4)底部穿孔壺の出土、という4項目に加え、以下の11項目を設定して検討する。

 それは、1:全体の平面形、2:方台部平面形、3:方台部規模、4:陸橋部、5:周溝の幅・深さ、6:施設、7:遺物量、8:器種構成、9:底部穿孔壺の様相、10:遺物の出土状況、11:群形成である。

 台地・丘陵上の「明確な方形周溝墓」と低地の「明確な方形周溝墓」の特徴は第1表のようにまとめ、両者の方形周溝墓には差異がほとんどないことを確認する。

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第1表 明確な方形周溝墓の特徴

そして、方形周溝墓については、
 ① 方台部が直線的な辺をもつ。
 ② 平面形は全周、一隅切れ、四隅切れがある。
 ③ 施設として溝中土坑がある。
 ④ 幅が1m以上、深さが50cmに満たないような広く浅いものは少ない。
 ⑤ 壺の出土比率が高い。
 ⑥ 出土品の完形率が高い。
 ⑦ 出土土器の出土位置がコーナーや陸橋部際、特定の周溝に偏る。
 ⑧ 整然とした群構成をなす。
の8点を基準として挙げる。

 「周溝持建物」については、同様の11項目の検討から、
 ① 周溝の辺の中央が切れる、またそれに加えてコーナーの一つが切れる開口部を有する。
 ② 周溝内は13m前後、10m前後の規模をもつ。
 ③ 遺構内から器種構成として壺に加えて甕が多く出土する。
 ④ 周溝の幅と深さが相対的に狭く浅い。
の4点をあげる。

 この周溝墓と周溝持建物の「基準」をもとに、第2章~5章では多様な様相の「周溝」を少しずつ解体していく。

 なお、本論からは少し外れるが、「杉原荘介氏が提唱し、長らく土師器の特徴とされた「斉一性」に至るまで道筋を明らかにしようとする方向性」とする部分は(1頁16~17行)、「小林行雄が提唱し、杉原荘介が進めた(小林1933、杉原1936)」とすべきであろう。

第2章 荒川低地南部の低地遺跡について、第1節では旧入間川流域の鳩ヶ谷市、戸田市、和光市域の遺跡を取り上げる。鳩ヶ谷市の分析は、辻字畑田第3遺跡、三ツ和遺跡、前田字六反畑第1遺跡、二軒在家遺跡、前田字前田第1遺跡、戸田市の遺跡は前谷遺跡、南原遺跡、南町遺跡、和光市の遺跡は榎道遺跡をとりあげる。

 第2節では三ツ和遺跡を再度取り上げ、検討する。特に集落と墓の分布に注目する。

 第3節では戸田市の大規模低地集落である鍛冶谷・新田口遺跡を取り上げる。

第3章 第1節では 鴨川・入間川・市野川流域の遺跡を取り上げる。旧浦和市域の鴨川流域では下大久保新田遺跡、本村遺跡、大久保領家遺跡、外東遺跡、旧入間川流域の大宮市域では土屋下遺跡、市野川流域の川島町域では尾崎遺跡、富田後遺跡、白井沼遺跡、吉見町域では三ノ耕地遺跡を取り上げる。

 第2節では荒川低地の元宿遺跡、第3節では荒川低地の北端・笠原低地・熊谷低地を取り上げる。荒川低地北端の旧大里町では下田町遺跡、笠原低地の吹上町・行田市域では袋・台遺跡、鴻池遺跡、武良内遺跡、高畑遺跡、熊谷低地の熊谷市域では小敷田遺跡、北島遺跡、一本木前遺跡を取り上げる。

第4章 第1節では妻沼低地南部の深谷市域の東川端遺跡、上敷免遺跡、戸森松原遺跡を取り上げる。

 第2節では妻沼低地西部・志戸川扇状地・女堀川扇状地を取り上げる。旧岡部町域では原ヶ谷戸遺跡、沖田Ⅰ・Ⅲ遺跡、石蒔B遺跡、本庄市域・児玉町域では飯玉東遺跡、諏訪遺跡を取り上げる。

 第3節では加須低地の騎西町の小沼耕地遺跡、修理山遺跡を取り上げる。

第5章 東京低地の遺跡を取り上げる。第1節は東京低地東部の草加市・足立区の遺跡を対象とし、東地総田遺跡、蜻蛉遺跡、伊興遺跡、舎人遺跡である。

 第2節では旧入間川右岸の板橋区を取り上げる。徳丸原大橋遺跡、舟渡遺跡(図1)を分析する。

 第3節では東京低地の豊島馬場遺跡を扱う。

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図1 東京都舟渡遺跡2次1号

(福田 2014 P177より転載)

第6章 「「周溝」の性格と機能」と題した章であり、福田が述べる、「総合的な判断」が実践され、考察する章である。少し詳しく見てみよう。

 まず、第1節と第2節では、現荒川左岸の大規模遺跡である鍛冶谷・新田口遺跡と右岸のこれも大規模遺跡である馬場遺跡を取り上げ、方形周溝墓と「周溝」覆土との遺物の出土状況を検討する(図2)。それによると、方形周溝墓は、1:覆土は自然堆積、2:出土量は多量、あるいはやや多い、3:土器の遺存率は高く、4:土器配置がみられる例もある、5:出土層位は中層以上の場合と下層出土の場合がある。6:出土状況は散在する程度にしか認められない例もある、というものである。

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図2 豊島馬場遺跡周溝持建物(SH129)

(福田 2014 P214より転載)

一方、周溝持建物については、1:覆土は自然堆積、2:出土量は少量、あるいはやや少量、3:土器の遺存率は低く、破片が大部分、4:出土層位は上中層から散在して出土する例が多い。5:全形の知られる土器が出土している例や開口部の両脇に土器が集中する例もある。

 そして周溝の内部に建物跡が検出されない単なる「周溝」は、1:覆土は自然堆積、出土量は少量、あるいはやや少量、3:土器の遺存率は低く、破片が大部分、4:出土層位は上中層から散在して出土する例が多い。

 という結果を得ており、墓である方形周溝墓と他の「周溝」とでは共通性より違いが多く、一方「周溝」の中では内部に建物跡がある「周溝持建物」と内部に建物跡がない単なる「周溝」とでは共通性が多いことがわかるという。福田は一つの要素に偏らない、総合的な検討を実践する。そして、この節ではまず低地の様々な「周溝」の中から、低地の「方形周溝墓」を分離する。残されたのは「墓以外の周溝」である。以下、様々な「周溝」の中から引き算を繰り返していく手始めの節でもある。

 第3節では「関東地方における「周溝」研究の経緯と課題」と題して、方形周溝墓と「周溝」の研究史を整理し、その課題を述べる。まず研究史の整理では、第1段階から3段階の3つの時期に限り、方形周溝墓の発見以後、方形周溝墓と「周溝」がどのように認識され誤認されてきたかをまとめる。

 第1段階(1964~1978年)は方形周溝墓の発見より、各地で墓制として認識されていた時代、第2段階(1979~1997年)は高橋保による新潟県下谷地遺跡における「周溝を持つ住居跡」の提唱をもって画期とし、第3(1998年~現在)段階は飯島義男と評者による方形周溝墓と建物の混在の指摘以降とする。各段階では大きく北陸地方の動向と関東地方の動向が詳細に述べられている。特に現在周溝を巡らす建物の起源地域の一つと言われている北陸地方の研究動向と関東地方の研究動向の比較は、なぜ関東地方の研究者が「周溝」を受け入れず、北陸地方では時間をかけながらも受け入れられていったかがまとめられている。とくに、第3段階に全国的に資料を集成・分類した岡本淳一郎の研究を高く評価する(図3)。そして、研究史の整理の中から、なぜ関東地方では受け入れられないのかが福田の本書執筆の動機の一つになり、「周溝」が「建物」であるという仮説の検証作業ともなるのである。

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図3 岡本淳一郎の分析(福田 2014 P238より転載)

評者からみると、本節では登呂遺跡の研究を取り上げるべきであったと思う。福田の研究史整理があくまでも「方形周溝墓」と「周溝持建物」の認識変遷の解明を意図してために、本来の「周溝持建物」の研究史整理が欠けてしまっている点は残念である。評者は、登呂遺跡の周堤帯と外周溝をもつ建物跡の認識について、後藤守一と関野貞との意見が対立し、住居跡に「周溝」が伴うのか否かの理解が、その後の大きな誤解のスタートになったと考えるからである。建築学主導の登呂遺跡の復元住居が、周溝と周堤帯を持つ、平地式住居として復元されたにもかかわらず、考古学サイドではこれを登呂遺跡の特殊性として、周溝や周堤帯の存在を重要視しなかった。この点は、登呂遺跡の再調査が1999~2001年に行われ、関野の理解が正しかったことを証明した点は大きな研究史上のポイントである。

 方形周溝墓と「周溝」の研究史では、北陸地方の動向も重要であり、評者もその研究に大いに啓発されたが、やはり登呂遺跡をも含めた東海地方の研究動向も取り扱うべきであったろう。

 第4節では、墓以外の「周溝」について分類・整理し、「周溝」と「周溝持建物」の様相をまとめる。その主眼は、墓以外の「周溝」の中に占める「周溝持建物」の割合である。既に福田が「東京低地以北の低地で34遺跡、398例あまりの周溝の調査例があるがその中で建物の施設の痕跡を確認できたのは37例にすぎない(p238 l10~11)」という指摘があるように、1割以下という検出例の少なさである(図4・5)。この点が、「周溝」が建物跡の一部であることの理解を妨げていると福田は考える。そこで以下のような要素をとりあげて墓以外の「周溝」を分析する。ここでは、第6章1・2節で検討した周溝の覆土の分析と同様、複数の要素を抽出した、総合的な分析手続きが行われる。分類には、1平面形、2規模、3開口部、4周溝の連続性を取り上げる。 平面形は、Ⅰ類:隅丸方形、Ⅱ類:方形、Ⅲ類:円形、Ⅳ類:それ以外とした。

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図4 関東地方の周溝持竪穴建物

(福田 2014 P236より転載)#23_07.jpg

図5 の周溝持掘立柱建物

(福田 2014 P237より転載)

規模は、Aランク:12.0m以上、Bランク:9.0~12.0m、Cランク:6.0~9.0m、Dランク:6.0m未満とした。

 開口部は、①:一辺の中央が開口、②:隅が一つ開口、③:三辺、④:L型、⑤:全周である。 周溝の連続性はa類:開口部以外に周溝が途切れない、b類:複数の開口部が認められる例や途切れ途切れのものとした。

 これら要素を分析した結果は第6図として示され、平面形ではⅠ類の隅丸方形が主体ながら、Ⅱ類やⅢ類も少数ながら認められる。規模ではBランクが主体ながら、A~Cランクが一定の割合で認められ、Dランクは少数派である(図7)。開口部では、①の一辺の中央が開口するものが主流であるが、②~⑤も一定量認められる。周溝の連続性では主体はa類であるが、少数ながらb類が認められる。

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図6 周溝の四要素

(福田 2014 P244より転載)

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図7 周溝の規模

(福田 2014 P245より転載)

次にこれらの要素の分布を比べる。福田は「周溝持建物」の分布は、大きく埼玉県南部から東京都の荒川低地及び東京低地にかけての地域と、群馬県の前橋台地を中心とする地域の2箇所に分かれていると見る(図8)。両者ではおおむね一致する点が多いが、周溝の平面形態と竪穴の平面形態の違いや遺構の分布状況が異なるという。しかし、この遺構の分布状況の違いについては残念ながら述べられていない。

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図8 周溝持建物の分布

(福田 2014 P247より転載)

さらに、掘立柱建物を伴う「周溝持建物」の特徴は、平面形はⅠ類の隅丸方形が主体で、規模は大形のA・Bランクが主体、開口部は①型の一辺の中央が開くものが主体、周溝の連続性はa類、周溝の規模は幅も深さも大きい点が特徴として挙げられている。

 こうした特徴をおさえた上で、ようやく福田は「周溝」との比較検討にはいる。

 福田は、周溝の内部に建物跡がある「周溝持建物」と周溝の内部に建物跡が検出されていない「周溝」との比較では、以下のような点が指摘されるという。平面形はⅠ類の隅丸方形が多い点は一致する。規模では「周溝」はB・Cランクの中型が多く、周溝持竪穴建物はCランク、周溝持掘立柱建物はA・Bランクと差が認められている。このランクは方形周溝墓の規模ランクと一致するという。開口部は①の一辺の中央が開くものが主体で、周溝の連続性も高い。周溝の規模では幅1m以下で深さ50cm未満が多いが、その規模をこえるものも少なくないという。

 そして、以上の分析から「周溝」と「周溝持建物」の比較検討から、平面形、全体の規模、開口部、周溝の規模、覆土の出土状況の各要素で共通している、という結論を導き出す。上記した各手続を経て、ようやく、「周溝」は「周溝持建物」の外部施設としての周溝である、と判断されたのである。つまり、「周溝」とした中から、まず墓としての方形周溝墓を分離し、次に残された「周溝」の中から「周溝持建物」を分離し、それでもまだ残る「周溝」の各要素を検討した結果、それは墓ではなく建物構造の一部であるとしたのである。

 一つ問題とされていた、最後に残された「周溝」の規模の大小も、周溝持建物の中に、「周溝持竪穴住居」と「周溝持掘立柱建物」があることにより理解が可能であると考えている。

(※以下「下」へ続く。)