調査研究コラム

#024 解題 福田 聖 著 『低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革』下 及川良彦

(※#023 解題 福田 聖 著 『低地遺跡からみた関東地方における古墳時代への変革』上より続く。)

これを受けて、第5節では「周溝」に区画された内部にどういった構造の建物が建っていたかを検討する。それは、周溝の内部に建物跡が検出される例がきわめて少ないという現状に対して、その理由を考えるためである。

 その建物形式を考えるヒントは「周溝持掘立柱建物」にあると考えている。周溝持掘立柱建物には1×1間の例と1×2間のものとがある。前者の柱穴位置は周溝内部の空間に寄っているのに対し、後者は周溝に近接する。このことから、両者は建物の形式が異なると考える。そして福田は前者については、その柱穴位置から、上部構造は壁が高く立ち上がるような平地式・高床式ではなく、竪穴建物に近い屋根が低い構造と推定する。つまり、周溝持の伏屋式「竪穴」建物に近い構造と理解する。

 そして、これを理解するためには、登呂遺跡のような周堤によって壁の高さを作り出す構造の竪穴建物的平地式建物か、全く周堤帯のない竪穴建物と同様の上屋構造を持つ伏屋式平地建物跡を推定する。その前提として、一般的な台地上の集落である稲荷台遺跡と赤羽台遺跡を取り上げて、4本主柱を持つ竪穴住居跡の比率を確認する。そして、4本主柱が竪穴の主体を占めるわけではなく、赤羽台遺跡では約4割、稲荷台遺跡では約2割しかないことを確認する。そして、4本主柱が建物設置の絶対条件ではなく、主柱がなくとも上屋構築が可能であると指摘する。こうした台地上の竪穴構造を念頭に、低地遺跡の「周溝」を見なおした場合、「周溝」内部に何もない姿も理解可能になるのではと推定する。

 そうした場合の建物構造はどのようなものかについて、1:「周溝」による区画内に盛土を施しそこに竪穴を掘り込み伏屋を建てる、2:周堤帯程度の盛土を行い、そこに屋根材を差し込む伏屋構造(pp253 l11~12)を推定する。しかし、こうした構造は発掘調査の所見からは、1については「周溝の覆土や遺構周辺の状況からは多量の土砂が区画内から流出したことは想定できず説得力がない」と否定する。さらに2についても「周溝覆土の下層に粘土ブロックが認められる例があるが、その成因としては後述するように自然の壁面の崩落が考えられるため、可能性はあるが想定しにくい」としてこれも否定する。さらに、同一の確認面で、周溝持竪穴建物や周溝持伏屋式平地建物が検出されていることから、1・2以外の建物構造を考える方が適切であるとする。評者はこの点については大いに不満があるが、さらに先に進もう。

 次に低地遺跡の柱穴を検討し、柱穴が検出されている竪穴でも柱穴はごく浅いことから、柱穴を掘っても水の滲出の影響がない建物構造を想定する。逆に柱穴が深いものは、水の滲出によっても床面に影響の出ない高床建物を想定する。さらに、確認面の内部に何も検出されない可能性のある建物跡として、「屋根の材料が軽く、その荷重を壁によって支える、柱を必要としない壁立式平地建物が想定できる。壁立で、壁を支える支柱にもごく浅くしか掘りこまれず、萱や草葺の屋根を持つ平地式建物である。(pp254 l13~15)」として、古墳時代後期の榛名山の噴火によって上部構造ごと埋没した中筋遺跡の壁立式平地式建物に類似したものをイメージさせるとする。

 以上から、福田は周溝持建物には、伏屋式竪穴建物と伏屋式平地建物、1×2間の高床の掘立柱建物、壁立式平地建物という四種類があると結論する。

 そして、懸案であった、研究姿勢の問題、周溝区画内に何らの施設も認められないという問題はひとまず解決したと宣言する。

 第6節では、前節で想定した「周溝持壁立式平地建物」について、その性格を考察する。まず、中筋遺跡や黒井峰遺跡で想定されている平地式住居は、季節居住のうちの「夏の家」説と岡本淳一郎や大塚昌彦が想定する小規模周溝遺構は「納屋のような使用法」説の2説を批判的に検討する。その結果、以下の3点から否定的であるとする。第1は、夏の住居は冬の住居(竪穴住居)とセット関係が必要だが、現状ではそうした関係は認められない。第2は周溝内から出土する土器量の多さと甕が多い器種構成は、倉庫の性格からは外れるとする。第3に覆土の検討から、焼土や炭化物の出土は倉庫ではなく住居の性格を示すとする。以上の3点から、「周溝持壁立式建物」は倉庫ではなく、居住施設としての住居跡と考えるのが最も適切であるとする。

 次に、周溝覆土の形成過程の検討を行い使用期間の分析を行うが、この部分に関しては、筆者は文意をくみ取ることができない。福田はこの節の結論として、「周溝持建物は、短期間使用され、放棄されたと考えられる。鍛冶谷・新田口遺跡に代表される入れ子状や知恵の輪状の重複もそれが累積した結果、形成されたのであろう。逆に群馬県のしっかりした竪穴を持つ例は、より定住的な場合と考えられる。(pp.l25~28)」とする。ここでは当初、周溝持壁立式平地建物の性格を議論していたはずが、周溝持建物に議論を広げており、しかも覆土の観察と遺物の出土状況から、使用期間や季節にまで言及している。はたして、こうした議論は可能であろうか。

 第7節では、周溝持建物を建てそこに居住した人々に考察を巡らす。福田は埼玉県鍛冶谷・新田口遺跡や大久保領家片町遺跡、東京都舟渡遺跡などの、同じ遺跡内に周溝を有する建物と周溝をもたない建物がある現象をどのように理解するか考える。

 まず、周溝の有無で大きな時期差は読み取ることができないとする。

 次に、周溝の存在理由を考える。周溝の存在は、排水・除湿といった実用的な理由ではなく、周溝持建物という建物形式が導入されたことを示しているとして、排水説を否定しカタチを重視する。周溝持建物は静岡県や北陸地方からの系統とすると、こうした地域からの人々の移住を想定できる。しかし、移住であるならば土器等の遺物にもその出自の差異が反映されるはずであるが、そうした明瞭な差はないという。

 外来系土器が目立つ東京都豊島馬場遺跡などの例でも、主体は在地系統の土器群であり、直近の武蔵野台地上の南橋遺跡集落とは大きな差はない。しかも外来系土器は故地の形態から大きく崩れた形態となっているとみる。

 こうしたことから、周溝の有無を単純に建てた人の系統の違いと読み替えるのは慎重であるべきとする。これは異系統の土器の混在がただちに他地域の人々の移住を意味しないように、在地の人々によって建てられた、異なる系統の建物群が一つの景観を構成していたという可能性を考慮する。つまり、弥生時代終末に外来系土器が新たに登場するのと同様に、周溝持建物は外来系建物と理解するのである。土器の「搬入」と「模倣」と同様の検討が必要とする。さらに、関東地方の中でも前橋台地と荒川・中川低地の周溝持建物の構造が異なり、地域性も認められる。また、一つの集落の中で、あるいは遺跡ごとに建物形式が異なる点も問題とする。

 第8節では、「方形周溝墓」として分離された中に、大型ながら方形周溝墓とするには躊躇する遺構が存在することを指摘する。住居でも墓でもない第3の周溝の存在である。そうした例として、鍛冶谷・新田口遺跡7号や中耕遺跡49号、下田町12号などをあげる。こうした例は、柿沼幹夫が指摘した、方形周溝墓の規模差に対応した使われる土器の組み合わせと量に格差が認められるという現象に反するものである。さらに、川島町白井沼遺跡1号のように、溝が2重にめぐり、内部に建物跡を有する事例なども、本例に含まれるとする。「周溝」の一部には、こうしたある一定の範囲を区画する施設の可能性もあることを考慮すべきとする。

 評者は方形周溝墓とされる中から、墓以外の遺構を分離する必要性については大いに賛同する。すでに赤塚次郎が方形周溝墓に隣接する墓ではない周溝の存在を指摘しており、筆者も埋葬が不可能な周溝の例を示したことがある。しかし、福田が事例としてあげた遺構については疑問である。

 第9節では、本章で検討してきた結果、関東地方の古墳時代前期の低地遺跡には、方形周溝墓、区画施設である方形周溝、竪穴建物、掘立柱建物、竪穴建物の周溝、高床の掘立柱建物の周溝、小規模な平地建物の壁周溝、平地建物の外周溝、井戸跡、溝、土壙など各種の遺構からなるとする。各集落ではこうした遺構が様々な組み合わせによって展開しているという。こうした様々な建物からなる景観をイメージすることの必要性を説く。 こうした点が、第7章で検討される。

第7章 「低地遺跡からみた古墳時代の変革」と題し、本書の中心となる考察が行われる章である。弥生時代までごく一部でしかなかった周溝持建物という建物形式が、関東地方一円で採用されるようになった歴史的意義について考察する。やや長くなるが、本題部分でもあるので細かくみていこう。

 第1節では、「周溝持建物」形式の導入により、一変する事態となった集落景観・集落構成に加え、異なる建物形式で構成される集落間の関係こそが関東地方の古墳時代開始期の社会の様相を反映しているとする。

 まず、九州や近畿での例をみたのちに、関東地方における周溝持建物跡の出現を検討する。関東地方最古の周溝持建物は千葉県木更津市高砂遺跡と芝野遺跡で、弥生時代後期前半とする。高砂遺跡の様相は、竪穴建物と重複しより新しく、南西側には墓域である方形周溝墓が展開する。高砂遺跡における遺構の構成や重複の様相は、その後の関東地方の諸遺跡を彷彿とさせるという。福田は、こうした様相が、東海地方の静岡県小笠町川田・東原田遺跡や登呂遺跡と共通すると見る。東海地方の菊川式土器が後期に流入することが説かれていることから、建物形式も同じ流れであるとする。しかし、この点は逆に千葉県には菊川式や伊場式といった東海地方の土器の流入が少なく、その影響は対岸の相模から武蔵南部に特徴的であることは比田井克仁をはじめ多くの研究者が説いているところである。建物形式の影響は土器の流入とはまた異なる契機があると見た方がよい。土器以外のより様々なモノやコトから想定すべきであろう。

 関東地方への本格的な周溝持建物の流入は弥生時代終末である。福田編年の2期後半から3期、近畿地方の庄内式の新しい段階、東海地方の廻間Ⅱ式であるとする。この段階に東京低地から荒川低地にかけて急激に展開する。その姿は、平面形はⅠ型、規模はCランク、周溝は連続する例が多く、周溝の幅も広溝で高砂遺跡の系譜をひくとする。しかし、同時期の東海地方や北陸地方では同様な構造の周溝持建物が認められないことから、この段階で既に独自の地域性を見いだせ、さらに地域ごとに独自の型式変化を見せるようになるという。具体例として、東京都豊島馬場遺跡と静岡県汐入遺跡(図9)は、評者はほぼ同内容の集落であり、区画溝や大形独立棟持柱付掘立柱建物跡の存在など、静岡県の集落の姿が東京低地に写されたと見るが、福田は周溝の型式分類からは既に変容していると見る。

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図9 豊島馬場遺跡と汐入遺跡

(福田 2014 P276より転載)

こうした弥生時代終末期における関東地方の遺跡立地は、大規模河川に直面することはなく、一本奥まった広い後背湿地に面する箇所に分布することが特徴とする。これは広く開発が容易な箇所で、主要な交通路と推定される荒川筋からそれほど距離を置いていない場所であることを指摘する。そして、まさにこの時期この場所に大規模な集落が認められることは、労働力の集中的な投入によって、大規模水田を開発し、新たに多大な生産力を手に入れる必要があったとする。こうした動きと周溝持建物が強く連動する可能性を指摘する。

 そして次節では、低地遺跡・低地開発の視点から地域首長の性格を検討し、関東地方における古墳時代初頭の社会像に迫る。

 第2節では、古墳時代開始期の関東地方の社会が、首長の登場を要請し、その首長が、いかにして社会構造を自身を支えるシステムに変容させたかを考察し、結論とする。

 この時期の関東地方の特徴づける要素として、前方後方墳をはじめとする出現期古墳、方形周溝墓から構成される墳墓群、竪穴建物、周溝持平地建物から構成される集落、井戸、大規模な小区画水田、外来系土器、ガラス玉、碧玉製、水晶製装飾品、小銅鐸などの銅製品、袋状鉄斧、鋤先などの鉄製利器、農具、建築材などの木製品をあげる。福田はこうした様相を、弥生時代後期には全く遺跡の見られなかった低地に展開する、大規模な遺跡を通して分析する。

 まず土器の面から検討する。この時期、外来系の土器が増加するが、その際の「波及」と「受容」に注目する。外来系土器を中心とした移動類型については比田井と若狭徹の研究があるが、両説を批判的に検討し、特に受け手側の受容の仕方とその後の変容に注目する。

 この時期の土器の模倣は、土器の特徴的な部分だけを取り換えて行われている点にあるとして、東海系のS字状口縁台付甕、北陸系の5の字状口縁やく字状口縁甕、あるいはタタキ甕をあげる。いずれも不完全な模倣であり、このことは土器の作り手が、外来系土器の本来の作り方を知らないために引き起こされた現象とする。これは、情報が不完全であったためと考え、この理由としてオリジナル作品を見よう見まねで製作したのではなく、単なる「形の情報」によって模倣品は制作されたとする。ここで、土器製作についての性的分業に注目し、以下のような仮説を設定する。

 前提として、土器製作の性的分業は女性であるとすると、たとえば不完全なS字状口縁台付甕についての情報は、女性がもたらしたのではなく、その形のみを知る男性によってもたらされた可能性を考える。そして、土器の情報をもたらすものについての推定から、土器製作には外来者と在来者に加え男女組み合わせが存在するとする。

 さらに、関東地方の土器の様相には二者があるとする。一つは「薄手ではあるが歪みが大きくて作りが悪く、荒れた質感の土器である。特に甕類に多く見られる。焼成が甘く、器面が荒れ、手に取ると壊れてしまうような物が多い。S字状口縁台付甕が目立ってみられる。p275 l9~10」として、豊島馬場遺跡、鍛冶谷・新田口遺跡、白井沼遺跡を代表として挙げる。もう一つは「厚手ではあるが、均整の取れた土器で、焼成もよく、しっかりとした質感の土器で、優品が多い。基本的に壺類が多く、一部の遺跡では甕類は同様である。p275 l13~14」として、北島遺跡、反町遺跡をあげる。こうした、土器に見られる様相の差異はそれぞれの製作者集団の性格の違いが反映しているとみる。

 次に、土器と同様に遺構や遺跡の展開から見た外来系と在来系を検討する。集落の構成遺構から見た場合、前者の外来系は低地における周溝持平地建物を中心とするのに対し、後者は台地における竪穴建物を中心とする。そうすると、単純な周溝持建物のみで構成される集落は東海地方東部の人々が主導して営まれた集落と考えたくなるが、福田は関東地方と東海地方の周溝持建物の共通性とともに独自の型式変化を遂げている点を重視する。そのために、単純な移住論による解釈では不十分とする。

 その理由は、関東地方の低地遺跡では、①周溝持建物のみ(豊島馬場)、②周溝持建物+竪穴建物(三ツ和)、③竪穴建物のみ(北島・反町)の三者があること。先の土器の性的分業論に加えて建物建築が男性の分業であるとすると、その男女の組み合わせによる婚姻関係をもとにした集団構成は複雑なものになると想定する。①の場合は外来系の男性+在来の女性、②は外来系の男性+在来の女性の場合と、在来の男性+外来の女性、③は在来の男女の組み合わせと、巧みな外来系土器の製作が認められることから、在来の男性+外来の女性の組み合わせも推定できるとする。しかし、残された組み合わせである、外来の男女の組み合わせによる集落の構成についてはその可能性が低いと見る。

 こうして導き出された、土器を中心とした二つの様相、さらに集落の建物形式にみる三つの様相、さらに両者を融合させた、出自集団構成による男女の組み合わせによる集落構成仮説をもとに、次にどのような集落の性格を反映しているか、そして、こうした様相から階層性が読み取れるかについて検討する。

 まず。厚手ながら作りのよい土器を持ち竪穴建物からなる集落に優位性が認められるとする。次に、周溝持建物の集落と竪穴建物の集落間を比べると、両者の差異は、性格の違いは指摘できるが、固定化された階層性とまで言い得るほどに隔絶化しているわけではない。また、低地遺跡に独立した出現期古墳が認められないことも、隔絶化し階層的な優位性を示していないと見る。さらに遺跡立地の面から、台地上の方形周溝墓と低地の方形周溝墓を比較しても、双方の住民には決定的な階層差や全く異なる出自等は想定しがたい。土器からみても台地と低地の差異は認められないとする。

 こうした点から、周溝持建物からなる集落と竪穴建物からなる集落の性格の違いを見た場合、両者が階層的には大きな隔たりがないとすると、具体的にどのような差異にもとづくものなのかを次に検討する。

 そこで福田は近年低地遺跡で発見例が増えている玉類と木器生産に注目する。

 玉類ではガラス玉と碧玉製玉を取り上げる。まず、新たに出現する鋳型を用いたガラス玉生産に注目し、台地や丘陵上の遺跡と低地の遺跡の比較を行う。台地上の集落で発見されたガラス玉鋳型は近在の前期古墳との関連から古墳を築造した首長層の葬送儀礼に用いるため、あるいは着装品とするために制作され、管理されていた可能性を考える。一方、低地遺跡の認められる鋳型は周溝持建物から構成される集落から出土する。そこで福田は建物形式とガラス玉制作技術が同一系譜にあると読み取る。また、首長層に管理されたガラス小玉生産とは別の生産形態ととらえる。つまり、ガラス玉は首長により直接生産される場合と低地の遺跡で生産される場合の二つの形態があると指摘する。

 一方、碧玉製の玉は、弥生時代以来副葬品として用いられているが、圧倒的に点数と出土遺跡が少なく、儀礼の道具立てとして用いられることはなく、しかも希少性があったとする。そして何よりも玉作りが竪穴建物の集落で行われていると見る。

 ガラスと碧玉の玉作りでは、その工房を含む集落が周溝持建物からなる集落と竪穴からなる集落とにわかれ、土器生産で見たのと同様に、竪穴集落がより中心的な役割を果たしていたとする。そして、その差は制作技術者集団を招聘することのできる、力のある実力者、つまり古墳の被葬者である首長とより密接に関係すると考える。より後者は階層性が高いとみる。

 続いて、建物、土器、玉作りの3点から、低地遺跡の性格を検討する。

 低地遺跡のうち、周溝持建物からなる集落は、その性格として、外来的な要素の移入を受ける港湾的な性格と新田開発の基地の機能が考えられるとする。様々な系譜の人々が住み、行きかうような様相は「市」のような様相を髣髴させるとする。在来集落から人々を拠出させて新しい集落を形成し、新田開発を行ったと見る。その背後に首長の存在を予想する。そして、低地遺跡における二つの集落である、周溝持建物の集落と竪穴建物の集落を比較すると、後者に優位性が認められるというこれまでの分析から、竪穴建物からなる集落は、首長居宅よりより下位の階層となり、周溝持建物からなる集落はさらに下位の一般的な集落であるとする。これは階層差とともに機能差をも示している。

 首長との関係では、低地開発、物流と土器、玉類の生産、多方面に渡る生産の掌握が古墳造営の原動力となったとみる。こうした新たな社会構造の形成に関しては、こうした集落の構成を可能にする社会的な存在として、在地社会の中に、首長の存在が要請されたと考えられるとする。そのために、低地遺跡のみではなく、台地の遺跡をも含めた社会の構造を読み解く必要があるとして、低地以外の台地の集落へも視点を広げる。

 そして、そこに木器生産の流通と管理の視点を加える。台地の遺跡には木器の生産に必要な木材の供給源としての役割をみる。反町遺跡の農具未成品の出土事例などから、特定のカシ類が選択されていたことが明らかとなっている。樹種の選択は、群馬県の新保遺跡などでも指摘されていることから、地元の木材の調達や交易品として木材の育成が台地の集落で行われており、こうした管理は台地の集落が行い、伐採や製材が行われていたと見る。そして加工は低地の遺跡で行われていることから、ここにも集落間のネットワークを見ることができ、そこにも首長の管理が及んでいたと見る。そして、こうした製品が首長の勢力内に供給され、交易の物資となり、これが首長の経済的な下支えの一つになっていたと見る。集落間の関係としては図10のようなイメージを示す。

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図10 関東地方古墳時代初頭の社会イメージ (福田 2014 P286より転載)

以上から、福田は関東地方の古墳時代の開始にあたって、以下のようなシナリオを描く。

 そのシナリオは、まず、低地開発を目的とした新しい集落の形成のために地域首長の存在が社会的に要請された。次に、この低地開発で力を蓄えた首長は、台地、低地の2種類の集落と首長居宅を結ぶネットワークを構成した。そこには階層差や機能差がある社会が構築されていた。そして、関東地方の古墳時代の開始に当たってはこうした社会ネットワークの構築が大きな鍵となっていたと指摘する。さらに、こうした、社会的な分業システムの確立が関東の古墳時代社会の開始には重要であったとみる。

 上記のような変革を確認するためには、それ以前の弥生時代の分業システムと首長の関係を比較する必要がある。そのポイントとして、次に集落の階層のあり方を検討する。

 階層化の分析にあたっては、木製品の分析から東海地方の首長の出現をモデル化した樋上昇の論考を参考とする(図11、12、13)。樋上の古墳時代初頭の階層性モデルによると、竪穴住居のみの「一般集落b」、掘立柱建物と竪穴住居からなる「一般集落a」、掘立柱建物と竪穴住居と区画溝を持ちさらに大型掘立柱建物と方形区画と井泉が加わる「首長居宅」の3つのランクがあるという。このランクには出土木製品の組成にも大きな差があるという。福田は関東地方と比較すると、関東地方には竪穴住居のみからなる「一般集落b」は存在するが、中間の層の掘立柱建物と竪穴住居からなる「一般集落a」が欠落するという。この差が東海地方と関東地方の大きな違いである。一方、関東地方では周溝持建物からなる集落、竪穴住居のみからなる集落という違いから、後者に「優位性」が認められるが、周溝持建物と竪穴住居両者からなる集落も存在する。福田はこうした違いから関東地方では階層的な格差までには至っていないとみる。したがって、近畿地方から東海地方西部までは、掘立柱建物と竪穴建物によって集落間の階層的格差が示されるのに対し、関東地方では竪穴建物と周溝持建物という建物構成からなっていることから、関東地方では両者は階層的格差というよりも社会的な性格、機能が異なる集落が首長居宅の下位に展開する社会であったとする。こうした、竪穴建物と周溝持建物からなる一般集落を福田は「関東型一般集落」と呼称する。

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図11 東海地方弥生時代の階層性モデル

(福田 2014 P289より転載)

#24_04.jpg図12 樋上による東海地方首長居宅への発展モデル (福田 2014 P290より転載)

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図13

樋上による東海地方首長居宅への発展モデル

(福田 2014 P290より転載)

この「関東型一般集落」が展開する社会はどのように形成されたのかについては、福田は以下のように答える。それは、地域社会が古墳時代社会に移行していく中で、在地社会の新しい社会体制の安定化の方法が、西日本のそれとは大きく異なっていたことに起因するという。地域首長の地域経営の方法が全く異なると言い換えることもできるという。

  関東地方の地域首長は外来系建物や外来系土器に代表される外来系の技術をもつ集団を、在来社会の枠組みの中に取り込むことによって、そうした新来の技術を在来の技術と融合させて、新田開発などの社会事業を実現したことにあるという。首長はそうして力を蓄え、出現期古墳の築造や古墳時代的な社会システムへの移行を成功させたとする(図14)。

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図14 関東地方における古墳時代
開始期の社会モデル

(福田 2014 P290より転載)

集落の中で土器や建物などのモノを作る際に、単に一つの方法、規則のみでおこなわれるのではなく、他の方法が付加される。こうした現象は、そこには複数の方法を持つ集団が存在することによって起こると考える。つまり、複数の分節集団から集落が成り立ち、その背後には集落間をまたがる集団が存在すると見るの。複数の出自集団の存在である。こうした集団の存在を外来系土器や外来系建物である周溝持建物の「かたちの情報」の差異や型式変遷から推定する。この点について福田は、「そうした出自集団、外婚集団の単位が複数集落に跨って存在し、そこに組み込まれることによって、擬制的な親族集団として機能しうるのではないか p293 l14~15」とみる。

 さらに、こうした社会の成立する要因として、性的分業と外婚集団による外婚モデルを示す。土器=女性、建物=男性という前提に立ち、表2と図15のような、集落内の建物の構成種類や土器の模倣ランクから、在来集団と外来集団の男女の婚姻の組み合わせができるとする。

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表2 外婚集団と婚姻関係モデル

(福田 2014 P296より転載)

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図15 外婚集団と婚姻関係モデル

(福田 2014 P296より転載)

こうした組み合わせの結果、「外来集団、あるいは外来者は、在地集団と親族関係になり、そのもととなる外来系出自集団も擬制的な親族関係となる。その結果、階層的格差が決定的でない一般集落の形が生みだされるに至ったと考えられる p295 l7~8」とする。さらに、「こうした社会関係の再構築が、「関東型一般集落」の形を生みだし、古墳時代前期に一般的に関東地方で見出せる「在地化した外来系」文物を生みだした p295 l10~11」とする。

 関東型一般集落の姿が成立した背景として、編成される側の問題も指摘する。それは、地域を代表とする首長の立場が地域経営の形に反映されているとする、松井一明の説を引用し、「関東地方を含む静岡県東部以東の社会は西側のそれと比べて、地域社会の分節集団や集落の力が強く、社会の要請によって登場した地域首長は、その意向を敏感に反映した p296 l8~p297l1」とする。関東地方の後期弥生社会は小地域ごとに土器型式が展開し、各型式が相互に関係性を保ちつつ、独立して展開する観が強く、松井の指摘する状況が想定される。さらに、前期古墳の分布を見ても、埼玉県東松山市・吉見町付近では前方後方墳や前方後方型墓が乱立する。こうした状況が、地域社会内部の首長権力のあり方を象徴しているとみる。つまり、前期古墳が造られるようになる一方、在地社会は弥生時代以来の社会状況に応じた地域型の古墳時代を開始したとする。古墳という新たな墓制を導入し、古墳時代という新たな時代への第一歩を同時に踏み出したにもかかわらず、関東地域社会の一歩は他の地域とは異なる歩みを見せる。これが、関東地方の古墳時代への変革の特徴だとする。「畿内型」でも、「東海型」でもない「関東型」古墳時代の社会の幕開けだと。

 以上が、本書の概要である。

次に、評者の検討を行いたいが、既に大幅に紙数が過ぎている。いくつかの点を指摘するに留めたい。①新稿のいくつかの章にやや粗い表現や文意の通りにくい部分、また、いくつか編集レイアウトの点で不備が認められ点があるのはやや残念である。②章立てについては、第6章3節の「関東地方における「周溝」研究の経緯と課題」は第2章として、独立させた方が分かり易かったのではなかろうか。また、結論の第7章2節も1~6項と7~10項に分け、後者を独立させ第3節とするとよりまとまりがよかったのではなかろうか。③低地遺跡の特徴を際立たせるためには、台地・丘陵部の集落の検討が必須である。その検討が少ないことが分析の面では、やや不満が残る。④「東海型一般集落a」の特徴である、周溝を持たない掘立柱建物の分析がない点と、低地遺跡に特徴的な「井戸」の分析がないのは残念である。評者は「井戸」と「周溝持建物」と「掘立柱建物」はセット関係にあるのではと考えている。このセットが新しく登場する低地遺跡の集落を特徴づけるとみてている。すでに、論考は用意されていると思う。期待したい。⑤また、素朴な疑問ながら、「関東型一般集落」を抽出できるのであれば、「関東型首長居宅」が存在するのか否か、存在するのであればどのような構造なのかが知りたいところである。今回の分析対象が一般集落であったためかもしれないが、こうした点が明示されていないため、モデルとしての提示が不十分と思われる。モデル化するとともに典型例を示していただきたい。⑥用語の問題であるが「」(かっこ)付の「周溝持建物」「周溝持竪穴建物」「周溝持掘立柱建物」などが頻繁に使われる。本書が「周溝」を主に扱うためにその使用はいたしかたないことであるが、今後はわかりやすい用語を用いた方が、他の研究者の理解も得やすいのではなかろうか。評者にも未だ良案はないが、仮に「周溝」のあるなしで、Ⅰ類、Ⅱ類、あるいはA類、B類に大別するのも一案かもしれない。

 以上のような不満はあるものの、扱った遺跡数、遺構数、遺物数は膨大に上り、検討した項目とそのデータも膨大である。そこから導き出された総合的な検討の結果は十分示せていると言える。福田が古墳そのものや土器や鏡といった、従来多くの研究者が取り上げてきた事例ではなく、全く新しい「周溝持建物」を切り口に、関東地方における古墳出現期の社会像を描き出したことは確かであり、その独自性は大いに評価できる。今後この内容をたたき台とし、各方面で大いに議論されることは確かであろう。こうした議論がこの時期の社会論を活発にすることは間違いない。刺激的な一書である。古墳時代の始まりに興味がある多くの研究者に本書の一読をお勧めする。

 また、出版不況のこの時代に、私家版ながらこの本の販売にあたり、新しい印刷・出版方法を開発し、本書の出版・発売に大きく関わった六一書房の挑戦に拍手を送りたい。

なお、本稿は「六一書房HP、書評リレー 第19回書評」に紙面の都合納まりきれない部分を加え、福田論文の図を加えて「解題」として再構成したものである。合わせて「書評」についても参照されたい。A4版 320頁 私家版 4320円(4000+税)

 公益財団法人福島県文化振興財団遺跡調査部
(公益財団法人 東京都スポーツ文化財団より出向) 及川 良彦