調査研究コラム

#028 古代カマド事情 -いわき市タタラ山遺跡の調査から- 安田 稔

古墳時代から平安時代の竪穴住居跡を発掘調査すると、住居の壁際には必ず煮炊きをするカマドが設置されている。

 そしてその構造は、戦前頃までの農村の土間によく見られたカマドと基本的に変わるものではなく、図で見るようにレンガ状の粘土を鳥居状に組んで焚口とし、煮炊き土器を火にかける部分は、粘土でかまくら状に築き、そのかまくらの天井部に穴を開けて土器のかけ口とするものである。

 煙は奥壁からトンネルで住居の外に導かれる仕組みである。

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図1 27号住居跡カマド正面図

ここで紹介する資料は、常磐自動車道の建設にともなって調査された、いわき市タタラ山遺跡27号住居跡(6世紀後半)のカマドであるが、特に注目するのは他と比べて遺存状態が極めて良く、当時の使用状況の一例を復元できるからにほかならない。

 27号住居跡の大きな特徴のひとつは、カマドにかけた甕が取り外せないようにかけ口をせばめて粘土で密着する、いわゆる「甕のはめ殺し」を採用していることである。この方法は群馬県などでは土器の観察などから確認されていたが、福島県内ではあまり注意されなかったものである。

 近年の感覚からすれば、カマドにかけた鍋・釜が取り外せないなどということは想像し難いが、いわゆる鍋・釜とは異なる長胴の土器甕を煮炊き具に使用した当時においては、熱効率を追求したひとつの姿と思われる。ただこの方法は土器が痛んだ時点で、カマドの作り替えを余儀なくされ、痛んだ甕の中に、一回り小さい甕を入子の状態で再セットした住居跡(11号住居跡)も認められたりはするが、どれくらいの頻度で甕を交換するかは今後の研究課題である。

 ふたつめの特徴は、カマドに二個の甕がかかっているということで、図の通り右側の甕がやや長胴で、左側は丸みのある胴部となっている。当時のご飯は、甕の底を抜いた甑で調理する蒸米が主流であり、おそらく右側の甕は湯甕としてセットされ、甑だけを湯甕にかけはずしするものであったと考えられる。そして左側の甕は調理甕と考えられ、中につまっていた土を調査したところ、イガイあるいはムラサキインコと思われる貝殻が出土した。魚介類を出汁とした副食物を調理していたかと想像される。

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図2 カマドで使用された土師器

タタラ山遺跡はいわき市でも山間部に位置することから、魚介類を得るには海岸部との交流が必要であり、当時の活動範囲をうかがわせる。また、甕がカマドからはずせない以上、食器に汁物をよそうには杓子状の調理具が必要であるが、それを知りえる資料は出土していない。おそらく木製のもので腐って消滅したと思われるが、状況証拠を積み上げることで、残っていないものも目に浮かび、当時の様子を推察することができる。これも考古学の楽しさのひとつといえるであろう。

 このコラムは(財)福島県文化センター(現在(公財)福島県文化振興財団)が1997年に発刊した情報誌「文化福島2月号」に掲載したもので、多少の手直しを行った。当時の土器研究は編年研究が主流であったが、被熱痕や使用痕観察などによる使用実態の復元研究が輝きを見せ始める時期でもあったように思われる。近年は、土器を使用した調理実験などによる生活復元が研究の一分野として確立している感があり、多くの成果が発表されている。
再掲ではあるが、調査時の感動は忘れがたいものがあり、その資料の価値も色あせていないように思われる。

【引用参考文献】
坂井秀弥『新潟県考古学談話会会報2号』1988
外山正子『三ツ寺Ⅱ遺跡』1991 群馬県教育委員会 (財)群馬県埋蔵文化財調査事業団
『常磐自動車道遺跡調査報告9・タタラ山遺跡』1996 福島県教育委員会 (財)福島県文化センター