調査研究コラム

#034 三春町越田和遺跡出土の刻書土器について 吉野 滋夫

ここでは、三春町越田和遺跡(註1)から出土した刻書(こくしょ)土器について紹介する。刻書土器とは、土器の器面に先端が尖った工具のようなもので文字類を記した資料のことである。

 刻書土器の他にも、土器の器面に文字類を墨で記した墨書土器があるが、出土文字資料としては墨書土器の方が一般的である。

 福島県三春町に所在する越田和遺跡は、阿武隈川の支流である大滝根川のダム建設を契機として発掘調査が実施された。

 文字資料が発見されたのは平安期の集落跡で、竪穴住居跡8軒、掘立柱建物跡10棟、鍛冶遺構1基、井戸跡2基、土坑などから構成されている。

 越田和遺跡から出土した文字資料は、刻書土器・墨書土器がある。刻書土器の文字は土器焼成後に記されたものが「久」(1~3)・「王」、土器焼成前に記されたものは「百」(4)・「福」・「キ」などである。一方、墨書土器は文字の判読ができないものである。これらの文字資料のうち、各文字の点数は「久」52点であるが「久」の可能性が高いものを含めると66点となる。「王」・「百」・「福」はいずれも1点、「キ」と墨書土器が2点であった。このことから、刻書土器「久」が大半を占めている。また、文字内容が不明とした刻書土器についても「久」が記された箇所で破損している可能性がある。

 次に、出土地点をみてみると、竪穴住居跡・掘立柱建物跡・井戸跡などがあるが、その多くは土坑や遺構外などである。このことは、廃棄された状況を示しているようである。

#34_01.jpg

三春町越田和遺跡出土土師器

ダム建設により調査対象とされた遺跡は、越田和遺跡以外にも複数の遺跡が調査されている。そのなかでも、四合内B遺跡(註2)と光谷遺跡(註3)については平安期の集落跡が発見されている。

 四合内B遺跡からは、竪穴住居跡7軒、掘立柱建物跡4棟、鍛冶遺構1基が検出されている。ここからは、墨書土器が竪穴住居跡2軒、掘立柱建物跡1棟から出土している。その文字は「人」、「丈」などである。墨書土器は文字が判読できないものも含めると8点出土している。

 光谷遺跡からは、竪穴住居跡10軒が検出されている。墨書土器が竪穴住居跡と遺構外から3点出土しているが、いずれも一部もしくは全部の文字が判読できない。

 先程みた四合内B遺跡・光谷遺跡と越田和遺跡との比較によると、前者が墨書土器数点であり、後者は刻書土器が50点を超える点数である。この差は際だっている。この差については、それぞれの集落内における特定の集団(註4)による差異なのであろうか。

 越田和遺跡の遺構では先程みたように、井戸跡や土坑などから文字資料が出土している。井戸跡は泉に近い湧水点につくられた遺構で、土坑の多くは炭化物や焼土・土器をなど不要物の投棄場として考えられているものである。井戸跡については水場での祭祀、土坑については別の場所で祭祀などに使用された土器を廃棄したのであろうか。興味は尽きない。

(註1) 1996年 福島県教育委員会『三春ダム関連遺跡発掘調査報告8(第1分冊)』
(註2) 1993年 福島県教育員会『三春ダム関連遺跡発掘調査報告7』
(註3) 1992年 福島県教育委員会『三春ダム関連遺跡発掘調査報告6』
(註4)  鬼頭清明氏によると次のような指摘がなされている。「特定の文字を土器に墨書する、ある人間集団があった。それは一つの竪穴住居、集落内の複数の人間集団、さらに一集落の範囲をこえる広がりをもったもの、というさまざまな単位で、墨書土器に同一の文字を記す、という人間のまとまりがあったのではないか。」
1985年 鬼頭清明「古代の村」『古代日本を発掘する6』岩波書店