調査研究コラム

#038 列島周縁の比較考古学 -10世紀の都城盆地と会津盆地-  菅原 祥夫

はじめに
 
古代の列島を多様な文化圏としてとらえ、中央史観からの克服を目指す研究が活発である。とりわけ、その末期の11~12世紀は、旧隼人社会に全国最古で最大規模の摂関家領荘園=島津荘、旧蝦夷社会に武家政権の原型=平泉が成立しており、「中世への胎動は南北の周縁から始まった」という画期的提言がなされている(入間田1988、小川2012他)
 ただし、〝周縁〟は視点によって異なるはずで、また別な設定が可能と思われる。このことで、さらに多面的な歴史像が浮かび上がるのではなかろうか。
 小論では、この目的で新たな研究素材を提示したいと思う。

1.問題提起
 
図1を見ていただきたい。片方を95パーセントに縮小しただけで、2つの建物平面図がほぼぴったりと重なり合う。この平安京から半径約500kmの対照的位置(図2)に存在したのは、島津荘も平泉も未成立の10世紀に、旧隼人・蝦夷社会で営まれた豪族居宅の主屋である。
◎宮崎県都城市大島畠田遺跡 都城盆地…日向国諸県(もろかた)郡域
◎福島県会津坂下町大江古屋敷遺跡 会津盆地…陸奥国会津郡域
 地方としては、異例な規模と格式の高さを備え、面積は当時の陸奥国守館(宮城県多賀城市山王遺跡千刈田地区)よりも大きい。
 さらに規模や構造は異なるものの、付属屋の配置がほぼ同位置でなされ(図3-A~E)、全体の設計プランまで類似している。
 はたして、これは単なる偶然だろうか。

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図1 主屋の比較

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図2 相互の位置関係

2.基本事実の確認
 縁束のある南北棟の四面廂建物を主屋に持ち、その中軸線上からやや東にずれたラインを基準に付属屋を配置した地方豪族居宅(図3)は、全国で他に類例を探し出すことができない(山中2007他)。また、かねてから両居宅は寝殿造りとの関係が指摘されていたが(吉田2007、坂井2013)、複数の平安京研究者に問い合わせたところ、主屋と付属屋が廊でつながれていないこと、主屋が東西棟でないことなどから、直接の系譜を求めるのは困難であることが判明した註1)。したがって、中央の何らかの影響は想定できるものの、第一義には、南北の周縁の類似現象の方を重視するのが妥当と思われる。
 ただし、成立年代は、大江古屋敷遺跡の方が大島畠田遺跡より1段階遅れ(10世紀中葉-9世紀末)、大島畠田遺跡に備わる苑池(池+中島、鑓水)や南辺の区画施設(柵+四脚門)が認められない。

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図3 建物配置の比較

3.地理・歴史的沿革
 
さて、この現象を考える上で重要なのは、都城・会津盆地の地理・歴史的沿革と思われる。どちらの位置も隼人・蝦夷社会の中では政権側と接し、いち早く郡(評)制の施行された地域である(7世紀末~8世紀初頭)。つまり、軋轢が小さく、政権側と近しい南北の周縁と位置付けられる。そして、居宅の廃絶後は、都城盆地に南九州北端の島津荘最初の荘域が成立し(万寿年間:1024~1027年)、会津盆地にも、東北南端の摂関家領荘園=蜷河荘が成立している(11世紀:詳細年代は不明)。
 また交通の要衝であった点も重要である。都城盆地は、日向国府の所在する宮崎平野から南西諸島との交易拠点となった志布志湾へ通じる交通路の中継地であり、会津盆地は、太平洋側の東山道と日本海側の北陸道を結ぶ交通路と、下野国から北上し出羽国内陸へ通じる交通路が交差していた。
 このように、政権中枢地からみて対照的位置の両地域では、継起的に類似現象が起きていた様子がうかがえる。

4.地域開発の消長比較
 
そこで、この見通しを検証するため、古代全般にわたる地域開発の消長を比較した結果、次の共通点が認められた註2)。
 A:郡(評)制施行直後の7世紀末~8世紀前半は、地域開発はまだ停滞している。都城盆地では明確な遺跡が
  ほとんど見当たらず、会津盆地も、郡衙の置かれた南東部中心に散発的な遺跡分布が確認できるだけである。
 B:そのため、本格的な地域開発は、8世紀後半~9世紀前半まで遅れた。都城盆地では、河川単位に新規集落
  が形成され、会津盆地では低地に開発が及び、東北最大の窯業生産地に発展していく会津若松市大戸窯が成立
  する。こうした急激な変化には、それぞれ豊前・北陸からの移民が導入され(桒畑2009、山中2013)、技術
  力にすぐれた渡来系氏族の秦人・秦氏が含まれていたことが判明している(菅原2015b)。
 C:この流れで、ピークは一般的には遺跡数の減少が始まる9世紀中葉~後半(坂井2008)に認められる。都
  城盆地では、全域にまんべんなく遺跡が分布し、会津盆地も同様の傾向を見せると共に、中心分布は次第に阿
  賀川水系で新潟平野へとつながる西部に移っていく。これは、B期に生じた北陸の影響がさらに強まったこと
  を意味している。
 D:ところが、10世紀後半になると大半の遺跡は廃絶してしまう。摂関家領荘園の島津荘と蜷河荘は、こうし
  た状況下で、かつての大島畠田・大江古屋敷遺跡の近傍に成立し、それを契機に再び新たな遺跡が形成される
  が、C期に比べると数は極端に少ない。
 このように両地域は古代全般にわたり、ほぼ一致した地域開発の消長を繰り返していた註2)。そのなかで大島畠田・大江古屋敷遺跡は、ともに遺跡数のピークにあたるC期9世紀中葉~後半に、国府・郡衙の所在地から離れた位置に出現しており、図3の居宅構造はそれぞれの変遷の最終形態で共通する。
 以上から、大島畠田・大江古屋敷遺跡の類似現象は、偶然の産物でないと考えられる。踏み込んでいうと、先にみた関係から、大島畠田遺跡の居宅構造が10世紀中葉に情報伝達され、大江古屋敷遺跡の居宅が成立した可能性があると思われる。

5.介在した氏族と歴史的評価
 
ではその場合、何が介在したのか、最後にこの課題に触れてみたい。
 ここでキーワードになるのは、地方武士団の台頭を象徴した、承平・天慶の乱(935~939年)と思われる。この乱で、平将門を打ち破った平貞盛や公雅の親族・子孫は、中央権門の家人として活躍するとともに、全国の複数地域に下向・土着していったことが知られている(鈴木2012)。つまり、遠隔地に分散した桓武平氏が、互いの情報を共有し合える状況が10世紀前半以降に生じていたのである。
 本論に重ねてみると、平貞盛の弟の繁盛は、都城盆地に島津荘を開いた大宰府大監の平季基、そして、11・12世紀の会津盆地に一定の政治力を及ぼした越後城氏の共通の祖先とされている(高橋2007、永山2009)。つまり、年代は新しくなるが、両地域は確実につながっていた註3)。そこで、この関係がさかのぼる可能性を探っていくと、平公雅の子息の到光は10世紀後半に大宰府へ進出、平貞盛の子息の維叙・維敏・維将は10世紀末に肥前守を歴任しており(野口1994)、平貞盛は10世紀中葉に陸奥守に赴任、越後城氏の直接的な基礎をつくった平繁盛の子息の維茂は、10世紀後半~11世紀前半の陸奥・越後に所領や活動拠点を有していたことが指摘されている(野口1994、川尻1992)。
 また考古学的にも、大江古屋敷遺跡は北陸の影響が会津盆地で強まる9世紀後半に出現し、その位置が阿賀川水系で新潟平野へとつながる西部であること、9世紀末の主屋構造(総柱)の類例が新潟平野に多いことから(春日2009)、越後城氏の先駆的な動きを生む状況が10世紀中葉までに形成されていたことがわかる。
 以上の複数の状況証拠から、両遺跡の類似現象には桓武平氏が介在し、政権側と近しい南北の周縁では、いち早く中世的社会につながる要素をはらんでいたと推定される。
 またそれが、9世紀からの変遷の最終形態であり、11世紀の摂関家領荘園の成立と直結しないことも重要である。居宅構造は異なるものの、同じような時期変遷で武士団の関わった事例が、関東に認められる(埼玉県上里町中堀遺跡:田中2003)。
 従来、列島周縁の比較研究は政権側との軋轢が大きかった地域で行われてきたが、このように中間域を加えることで、歴史変化の過程がより多面的かつスムーズに理解できると思われる。もちろんこの視点は他の時期にも有効と言え、既に律令国家形成期の検討で成果を上げている(菅原2015a・2015c)。
 今後、関連資料がさらに充実することに期待して、稿を閉じることにしたい。

おわり
 
大島畠田遺跡と大江古屋敷遺跡は、既に多くの関連研究成果が蓄積されている(吉田2007、坂井2013ほか)。しかし、両者の明瞭な類似現象はなぜか注目されてこなかった。本コラムは、来春刊行予定の書籍に寄稿した論文の抜粋であり、埋もれた貴重な情報をもっと広く発信する目的で、このような形をとらせていただいたことを最後に明記しておく。


 1)2014年11月2日に開催された平安京・京都研究集会『平安京の貴族邸宅-寝殿造論の再検討-』の場で、
  山田邦和・南孝雄・吉野秋二・赤澤真理・浜中邦弘・浜中有紀氏と意見交換を行った。また、高橋照彦・網伸
  也 ・箱崎和久・家原圭太氏からも有益なご教示を得ている。
 2)桒畑光博氏と山中雄志氏の研究成果から、多くを学んだ(桒畑2009、山中2013)。また、柴田博子・栗山
  葉子氏から、都城盆地に関する最新情報をご教示いただいた。
 3)越後城氏をめぐって、会津坂下町陣が峯城跡が問題になっている。12世紀に会津盆地西部で営まれ、現在
  も地元住民から「じょうのしろ」と呼ばれるこの城館主を誰とみるかで、見解が一致していない。小論ではこ
  の問題に立ち入らないが、当時の会津盆地に彼らが一定の政治力を及ぼしたのは、考古・文献史学の総合的な
  検討結果(八重樫2007・高橋2007)から異論はないと思われる。

【引用・参考文献】
 (発掘調査報告書)
・会津坂下町教育委員会1990『大江古屋敷遺跡 若宮地区遺跡発掘調査報告書』
・宮崎県埋蔵文化財センター2000『大島畠田遺跡-農用地整備事業「都城地区」区画整理に伴う発掘調査概要報
 告書-』
・宮崎県埋蔵文化財センター2008『国指定史跡大島畠田遺跡』
・宮崎県都城市教育委員会2000『大島畠田遺跡』
・宮崎県都城市教育委員会2013『国指定史跡 大島畠田遺跡-平成23・24年度確認調査報告書-』
 (論文・書籍)
・家原圭太2014『平安京』京都市文化市民局
・入間田宣夫1988『中世武士団の自己認識』三弥井書店
・太田静六2010『寝殿造の研究 新装版』吉川弘文館
・小川弘和2012「荘園制と「日本」社会-周縁からの中世-」『北から生まれた中世日本』高志書院
・春日真美2009「越後における古代掘立柱建物」『新潟県の考古学Ⅱ』新潟県考古学会
・栗山葉子2009「古代都城盆地の地域性と境界性」『地方史研究』第340号 地方史研究協議会
・桒畑光博2009「島津荘の成立をめぐる諸問題」『地方史研究』第341号 地方史研究協議会
・坂井秀弥2008『古代地域社会の考古学』同成社
・坂井秀弥2013「全国の古代遺跡からみた大島畠田遺跡」『国指定10周年記念シンポジウム 大島畠田遺跡の時
 代を語る-島津荘成立以前の都城盆地の動向-【記録集】』宮崎県都城市教育委員会
・菅原祥夫2007「東北の豪族居宅」『古代豪族居宅の構造と機能』奈良文化財研究所
・菅原祥夫2013「陸奥南部における大化前後の在地社会変化とその歴史的意義」『日本考古学』第38号 日本考
 古学協会
・菅原祥夫2015a「製鉄導入の背景と城柵・国府・近江」『月刊考古学ジャーナル 特集:東北地方古代史の再
 検討』№669 ニューサイエンス社
・菅原祥夫2015b「古代会津の開発と渡来系集団-「梓 今来」・「秦人」をめぐって-」『韓式系土器研究
 ⅩⅣ』韓式系土器研究会
・菅原祥夫2015c「律令国家形成期の移民と集落」『古代の東北③ 蝦夷と城柵の時代』吉川弘文館
・鈴木哲雄2012『平将門と東国武士団』吉川弘文館
・谷口武範2001「宮崎県大島畠田遺跡の調査」『日本歴史』第632号 吉川弘文館
・高橋一樹2007「城氏の権力構造と越後・南奥羽」
・田中広明2003『地方の豪族と古代の官人』柏書房
・永山修一2009『隼人と古代日本』同成社
・野口実1994『中世東国武士団の研究』高科書店
・藤田勝也2012「寝殿造とはなにか」『平安京と貴族の住まい』京都大学学術出版会
・山中敏史2007「地方豪族居宅の建物構造と空間的構成」『古代豪族居宅の構造と機能』奈良文化財研究所
・八重樫忠朗2007「陶磁器が語る陣が峯城跡」『御館の時代』高志書院
・山中雄志2013「会津地方における11・12世紀の土器と集落、屋敷、城館-古代から中世への狭間の考古学的素
 描-」『東国の考古学』
・吉田博行2007「会津蜷河荘成立前後の様相」『中世・会津の風景』高志書院