調査研究コラム

#039 伊達市小国城跡 -上ノ台遺跡から見える館跡- 廣川 紀子

相馬市と福島市を結ぶ復興道路の建設が進められ、工事予定地では事前に遺跡の発掘調査が行われています。発掘調査は伊達市内(旧霊山町)の小国地区に入り、今年度は福田・沼ケ入遺跡の2遺跡の調査を終え、現在、上ノ台遺跡の調査が進行中です。

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上ノ台遺跡からみる小国城跡

(写真中の丸印が小国城跡)

調査を行っている上ノ台遺跡からは縄文土器や石器、木炭窯跡が見つかっていますが、この遺跡の同じ丘陵上には中世の城館跡とみられる上ノ台館跡が存在します。事前の調査では、自然の要害を生かした館跡の一部とみられる人為的な整地面や、尾根を分断する堀跡のようなものが地表面から観察されています。館跡の本格的な調査は次年度を待つことになりますが、先に調査を行った福田・沼ケ入遺跡からも中世の遺構が確認されておりますので、今回は調査中の上ノ台遺跡から見ることのできる中世城館跡のひとつをご紹介しながら、同地区の歴史の一端に触れたいと思います。

伊達市小国城跡
 上ノ台遺跡から見える館跡は「小国城跡」と呼ばれるもので、小国地区を代表する中世城館跡のひとつです。この小国城跡は南北朝期には築造され、史料に残される南朝方の城跡の候補地のひとつに考えられています。

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伊達市小国城跡

(小国小学校前より撮影)

小国城跡が所在する伊達市霊山町小国地区は、福島市や旧月館町に接する旧霊山町の西端部分にあたります。旧霊山町内には国史跡及び名勝として指定されている霊山城跡が知られ、小国地区からも霊山の切り立った険しい岩肌を拝むことができます。霊山城は、もともと平安時代に滋覚大師円仁が開いた山岳寺院ですが、南北朝の動乱では北畠顕家をはじめとする南朝方の拠点として利用されることになります。南北朝の動乱は北朝方が優勢となって収束しますが、小国城跡を史料に残されている南朝方の城である大波城とする説があります。史料には、北畠顕家の弟である顕信をはじめとする南朝方の一行が多賀国府を追われ、三沢城(白石市)から宇津峰城(須賀川市)に向かう途中に大波城に立ち寄ったとの記録があり、翌年には出羽へ敗走しています。

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小国城跡略測

『福島県の中世城館跡』より

小国城跡は、中村街道とも呼ばれる国道115号線沿いに突き出た小高い山稜の北東端に位置し、その裾野には広瀬川の支流である小国(大波)川や上小国川が流れています。『福島県の中世城館跡』によれば、頂部の標高は192mを測り、周囲の低地部分との高低差は70mほどです。尾根を分断するように幅約7m、深さ約4mの堀跡があり、その先端部分には幅2~3m、高さ約1mの土塁が巡らされています。その内部には約70×40mと約50×35mの平場がみられ、その間には幅約7.5m、深さ約3mの堀跡があります。さらに、分断された尾根の南側にはのろし場も報告されています。

 さて、小国城跡を大波城の候補地のひとつと紹介しましたが、そのもうひとつの候補地が福島市大波地区に所在する「大波城跡」です。大波城跡も、国道115号線沿いの山地にあります。その範囲には200mほど離れた神社域も含めるなど諸説あるようですが、かねてより南朝方の一行が大軍で立ち寄るには小規模なのではとの指摘があります。

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大波城跡

(大波農村広場前より撮影)

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大波城跡略測図

『福島市の中世城館』より

今年度の相馬霊山道の調査は終盤となりましたが、次年度には上ノ台館跡の発掘調査が始まり、さらに同地区の歴史に新たな知見が得られることになるでしょう。調査中の上ノ台遺跡から真正面に見える小国城跡に目を向けながら、上ノ台館跡との関係にも期待が高まってしまいます。

・霊山町『霊山町史』第1巻通史(平成4)
・福島県教育委員会「福島県文化財調査報告書第197集『福島県の中世城館跡』」(昭和63)
・福島市教育委員会「福島市文化財調査報告書第36集 『福島市の中世城館Ⅱ』」(平成7)
・福島市教育委員会「ふくしまの歴史2中世」(平成18)