調査研究コラム

#041 金糸のはしっこ、つなぎめ ―遺物観察ノートより―  福田 秀生

1 はじめに
 本稿は、いわき市豊間地区に所在する餓鬼堂(がきどう)横穴墓の出土遺物を見せてもらった際に、「金糸」の小片を観察し、漠然と考えた点をノートに記したものをまとめたものである。

 金糸とは、絹糸などを芯糸とし、その上に細く薄い金板や金箔を巻いたもので、主に刺繍糸として用いられるものである。金糸の幅は0.5~0.8㎜ミリメートルで、厚さ10~15マイクロメートル(1ミリメートルは1000マイクロメートル)である。有名なものに正倉院宝物の羅(ら)道場幡(ばん)や法隆寺献納宝物の忍冬文繍残片がある。羅道場幡は天平勝宝九歳(757年)に執り行われた聖武天皇一周忌斎会に用いられた幟旗の一つで、金糸を用いた煌びやかな刺繍が施されている。(羅とは絹織物の一種で、絡み織と称される複雑な織り方をしたもの。)

 発掘調査によって発見された考古資料としては、大阪府阿武山古墳から出土した金糸が有名である。阿武山古墳は藤原鎌足の墓とされる古墳で、金糸は当時の最高官位を示す織冠(かんむり)に施された刺繍糸とされる。その他に、島根県上塩冶横穴墓第21支群10号墓・第22支群9号墓(6世紀後半頃)・滋賀県甲山古墳(6世紀前半頃)・鳥取県マケン堀古墳・千葉県金鈴塚古墳などで出土例が知られている。全国的に見ても、古墳に納められた副葬品の一部(金糸を用いて刺繍が施された絹織物と考えられるが、絹織物や芯糸は腐食して遺存していないため、本来的には何に用いられた刺繍糸かは不明である場合が多い。)として出土する事例がほとんどである。また、奈良県飛鳥池遺跡(7世紀後半頃)において失敗作とされる金糸が出土している。このことから国内でも金糸の製作を行っていることの証左となっている。

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写真1
正倉院 羅道場幡

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写真2
上塩冶横穴墓 金糸

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写真3-1 マケン堀古墳 金糸 電子顕微鏡写真

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写真3-2 金糸側縁の拡大写真

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写真4 飛鳥池遺跡 金糸

2 金糸の種類と構造
 金糸は、芯糸に巻き付けた金の構造により、以下の3種類に分類できる。
 ①撚金糸:薄く延ばした金の薄板を細く裁断し、それを芯糸に巻き付けたもの。
 ②平金糸:漆を塗った和紙に薄く延ばした金箔を貼り付け、糸状に裁断したもの。(図1)
 ③撚箔糸:②平金糸を芯糸に巻き付けたもの。

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図1 平金糸の模式図

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図2 金糸と芯糸の撚り方模式図

さらに、金糸は芯糸と金板の撚り方によって、①撚金糸と③撚箔糸は図2に示すような4種の構造となる。  撚り方は、S撚り(時計回りで撚る方法)とZ撚り(反時計回りで撚る方法)があり、芯糸と金のそれぞれの組み合わせから4種類となる。前述した甲山古墳の金糸はZ撚り、上塩冶横穴墓とマケン堀古墳の金糸はS撚りである。なお、芯糸が遺存する金鈴塚古墳の金糸は、芯糸がS撚り、金がZ撚りである。正倉院宝物や法隆寺献納宝物でもS撚り・Z撚りの両者が見られるという。古墳出土の金糸と併せても、芯糸・金の撚り方は一定していない特徴がある。

 金糸の変遷を研究する東京国立博物館の沢田むつ代の研究によれば、古墳出土の金糸は薄い金板が螺旋状に巻かれ、中空のパイプ状になった状態で出土しているものがほとんどである。一方、千葉県金鈴塚古墳の金糸では芯糸とした絹糸が遺存する。古墳出土の金糸は、①撚金糸が大半を占め、主に刺繍に用いられるとする。

 伝世品として正倉院宝物と法隆寺献納宝物の観察では、①撚金糸は組紐や刺繍、②平金糸は綴(つづれ)織、③撚箔糸は刺繍に用いられているとし、正倉院宝物では③撚箔糸が多いと分析する。また、①撚金糸は薄い金板を用いるために③撚箔糸に比べ硬く、③撚箔糸は和紙に貼り付けた非常に薄い金箔を用いて いるため軟らかい特徴がある。金糸の性質の違いから、刺繍糸としての強度、立体的な表現や色合いなど、絹織物に施された刺繍としての風合いを意識的に使い分けていると指摘している。

3 まとめ―金糸の観察ポイント―
 金糸を用いた絹織物だけでなく、金糸自体の出土例は全国的にも極めて少ない。日々発掘調査に携わる私たちでも、めったに目に触れる機会がない遺物であることも確かである。さらに考古資料としては、絹織物や芯糸など有機質の部分が失われた状態のものがほとんどで、腐食せずに残った細いパイプ状になった金の断片として出土する。そのため本来的な姿や金糸の製作方法を復元することが困難な遺物である。肉眼ではせいぜい金糸の巻き方が分かる程度であろう。
 本稿を執筆する契機となったいわき市餓鬼堂横穴墓出土の金糸を通して、以下の点に着目し、金糸の製作方法の観察ポイントとして指摘しておく。
 なお便宜上、芯糸に巻かれる前の細く裁断された金板を金リボン、金リボンが裁断される前の金板を金シートと称する。

裁断痕跡 金糸の観察には、前掲写真3に示すように電子顕微鏡による観察は有効であることは言うまでもない。上塩冶横穴墓群の金糸を観察した村上によれば、金リボンの側縁が鋭く直線的になる点から、針金状の金線を叩いて薄くしたものではなく、裁断具の特定までは言及していないが、鋭利な刃物またはハサミを用いて裁断した可能性を指摘している。
 前記した①撚金糸・③撚箔糸のいずれの場合においても金シートの大きさを推定する資料はないが、金リボンの幅が0.5~0.8ミリメートルと極めて細い点、金糸の製作には長い金リボンが必要になる点からも、ハサミを用いるよりは切り出しナイフで裁断した方が容易であることは想像に難くない。

端部 金リボンがちぎれた破断面ではなく、金リボンの端部を見つけることが重要である。両者の判別は前記した電子顕微鏡の観察で容易であろう。金リボンの端部を観察すれば、金リボンを裁断する前の金シートの形状が分かるであろう。①撚金糸の場合、金シートは金塊を叩いて、均一な厚さで薄く延ばす方法が想定される。この時、現在の金箔製作のように金板の形状が丸くなり、前掲の金リボンの側縁とは異なる形状となる。金シートの端部を四角に切り揃え、金リボンを裁断し易くする工程があるのであろう。
 一方、端部に加工を施す場合も考えられる。つまりは芯糸に巻き付ける際に金リボンの端部に何らかの加工を施し、金リボンが芯糸からほつれて外れないような始末が想定される。この点については、金リボンを芯糸に編み込んで固定するのであろうが、端部の始末だけでなく金リボンどうしの継ぎ方も解明できる可能性がある。今後の詳細な観察が課題である。

つなぎめ ①撚金糸・③撚箔糸ともに、芯糸の上に金リボンを螺旋状に巻いたものである。そのため刺繍に必要な金糸の長さに併せて、金リボンも長いものが必要とされる。当然、金リボンのつなぎめも存在するのであろう。金リボンのつなぎめが観察できれば、その構造把握だけでなく、金シートの大きさ・製作方法を復元することができるだろう。
 金リボンのつなぎ方については、①撚金糸の場合は、金板どうし接着であるため、圧着(固相拡散接合?)するかもしれない。③撚箔糸は和紙に金箔が貼られたものであるため、漆・糊などの接着剤を要する。
 次に、つなぎめ間の長さが分かれば金シートの大きさを復元することができる。①撚金糸では、金リボンの長さが金シートの大きさに制限される。針金状の金線を薄く叩き延ばして長い金シートを製作することも可能であろう。それを整形して細く裁断すれば、比較的長い金リボンを作ることができる。③撚箔糸では、漆を塗った和紙に金箔を貼る造りであるため、金箔の大きさではなく和紙の大きさに制限される。例えば現在の金箔では約20センチメートル四方のものが最も大きい。金箔を和紙の大きさに併せて、次々に隙間なく貼り合わせて金シートを作るのであろう。
 いずれにしても金リボンが重なり、他の部位よりも厚くなったのりしろ部分を見つけることが重要である。

立体的構造 これは金糸の使用痕跡である。通常発掘調査では小片になるものや、スチールウールのようにぐちゃぐちゃになって出土したものが多い。金糸刺繍を施した絹織物だけでなく、金糸刺繍の図柄を推定することは困難である。金糸の出土状況や遺物の取り上げ方法によっては、金糸の立体的な構造を把握することが可能であろう。 また、絹織物の上面に金糸を縫い付ける糸の痕跡も重要で、縫い付け方法やその痕跡の間隔が分かれば、伝世品との比較を通して、金糸刺繍を施す絹織物の推定だけでなく、刺繍の図柄を復元できる可能性を指摘しておく。

 最後に、整理途中の忙しい折に餓鬼堂横穴墓の出土遺物を見学させていただいた、いわき市考古資料館の職員の方々には、記して謝辞を申し上げる。

<写真転載文献>
写真1   正倉院事務所編集 2000年 『正倉院宝物 染織(上)』 朝日新聞社
写真2~4 村上 隆 2003年 「金工技術」『日本の美術』443号 至文堂

<参考・引用文献>
・樋口隆康  1983年 「阿武山古墳の金糸を巡って」『橿原考古学研究所論集』第9 吉川弘文館
・村上 隆  1998年 「上塩冶横穴墓群出土禁制品の材質と製作技法」『上沢Ⅱ遺跡・狐廻谷古墳・大井谷城
            跡・上塩冶横穴墓群』 島根県教育委員会
・村上 隆  2003年 「金工技術」『日本の美術』443号 至文堂
・沢田むつ代 1998年 「正倉院頒布裂」『東京国立博物館紀要』第33号 東京国立博物館
・正倉院事務所編集 2000年 『正倉院宝物 染織(上)』朝日新聞社