調査研究コラム

#093 これが赤坂D遺跡の瓦だ 能登谷宣康

          これが赤坂D遺跡の瓦だ          

 はじめに

 赤坂D遺跡は、福島県双葉郡浪江町大字棚塩字赤坂に所在する古代の生産遺跡で、JR常磐線浪江駅の北東約3.5㎞の丘陵上に所在する。約800m東方は太平洋の海岸である。遺跡の南方約400mには鹿屋敷遺跡が所在し、西方約1.5㎞には北中谷地遺跡が所在する。鹿屋敷遺跡は古墳時代前期から平安時代にかけての竪穴住居跡約160軒、掘立柱建物跡20棟以上が検出されている集落遺跡で、北中谷地遺跡では古墳時代前期から平安時代にかけての竪穴住居跡68軒の他、古墳時代終末期の製鉄炉跡、平安時代の鍛冶炉跡が検出されている。また、南西約2.2㎞には県指定史跡本屋敷古墳群が所在し、鹿屋敷遺跡が所在する丘陵の南辺には狐塚古墳群・安養院古墳群・堂ノ森古墳が分布している。
 令和元年10月から令和2年7月にかけて県道広野小高線建設に先立ち実施された、赤坂D遺跡の発掘調査に参加した際に出会った瓦について紹介する。

図1 赤坂D遺跡の位置(古代城柵官衛用).jpg

図1 赤坂D遺跡の位置

調査の成果

 今回の調査で、請戸川左岸の沖積地から北方へ樹枝状に派生した沢に面した西向き斜面から古墳時代終末期から奈良時代にかけての製鉄炉跡廃滓場1箇所、瓦窯跡5基、須恵器窯跡1基、木炭窯跡11基が近接して検出され、それらと一部重複して竪穴住居跡や性格不明遺構なども検出された。
 遺物は、須恵器片約2,300点、土師器片約200点、瓦片約9,700点(約1.4トン)、鉄滓約17トンが出土した。

赤坂D遺跡全景切り抜き.jpg

図2 赤坂D遺跡で見つかった遺構群

瓦について

 赤坂D遺跡の瓦には、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・隅切瓦・熨斗瓦がある。軒丸瓦は模様が特徴的な瓦当部と丸瓦部からなるもので、軒平瓦は平瓦の広端部に瓦当部が認められるものである。これに対して、丸瓦と平瓦は瓦当部を持たない。隅切瓦は上部ないしは下部が斜めに切られているもので、熨斗瓦は幅が平瓦の半分程度のものである。

いろんな瓦たち切り抜き.jpg

 図3 赤坂D遺跡の色々な瓦

軒丸瓦について 

 軒丸瓦には瓦当部の厚さが3㎝台のもの(8点)、4.14.6㎝のもの(8点)、4.96.1㎝のもの(4点)があり、この違いは丸瓦を瓦当部に固定する際に枷型に詰めた粘土の高さに起因するものと推測される。丸瓦部との関係では、厚手の丸瓦が組むものと薄手の丸瓦が組むものがある。また、瓦当部の側面には製作時のバリや段が残存しているものもある。
 瓦当の文様は交叉鋸歯文縁複弁六葉蓮華文1種類であるが、詳細に見てみると、外縁は幅の狭い素文で、交叉鋸歯文の「×」文は43個ある。間弁はY字形ないしはT字形を呈し、中房蓮子は一重(1+6)で、外周蓮子が間弁に対応している。また、交叉文から複弁文にかかる笵キズが右上ないしは左下に認められる。笵キズが右上の時は左上の3カ所の交叉文間に斜めの浮線が認められ、笵キズが左下の時は右下の3カ所の交叉文間に斜めの浮線が認められる。さらに、外縁に刻みを持つものもある。瓦当径は17.217.8㎝、中房径は5.4~6㎝である。

軒丸瓦の瓦当部.jpg

図4 軒丸瓦の瓦当部

バリ2.jpg

図5 軒丸瓦側面のバリと段、笵型と枷型

軒丸瓦の瓦当の特徴.jpg

図6 赤坂D遺跡の軒丸瓦の特徴

 交叉鋸歯文縁複弁六葉蓮華文の軒丸瓦は、いわき市夏井廃寺跡・根岸遺跡・梅ノ作瓦窯跡、泉崎村関和久遺跡・関和久上町、白河市借宿廃寺・大岡窯跡、郡山市清水台遺跡・開成山窯跡、須賀川市上人壇廃寺跡、宮城県角田市角田郡山遺跡、茨城県北茨城市大津廃寺跡から出土している。赤坂D遺跡の資料の属性ごとにこれらの遺跡の資料と比較してみると、以下のようになる。

幅の狭い素文の外縁 赤坂D遺跡の他、上人壇廃寺跡にもある。

交叉鋸歯文 赤坂D遺跡以外は単位が大きく、数も少ない。夏井廃寺跡では30単位、借宿廃寺では32単位、赤坂D遺跡では43単位。

間弁 夏井廃寺跡・根岸遺跡・梅ノ作瓦窯跡・関和久遺跡・関和久上町・借宿廃寺・大岡窯跡はY字形、他はT字形。赤坂D遺跡はY字形とT字形がある。上人壇廃寺跡は間弁がない。

弁分割線 赤坂D遺跡は無い。清水台遺跡・角田郡山遺跡はある。

中房蓮子が一重(1+6) 清水台遺跡・角田郡山遺跡・上人壇廃寺跡は二重。

外周蓮子が間弁に対応 赤坂D遺跡の他、関和久遺跡・関和久上町・借宿廃寺・大岡窯跡。

このように、赤坂D遺跡の軒丸瓦と文様は似ているものの、同笵のものは認められない。

軒丸瓦の特徴.jpg

図7 赤坂D遺跡の軒丸瓦

軒平瓦について

 軒平瓦には有段顎のものと無段顎のものがある。推定も含めて、有段顎のものと無段顎のものはそれぞれ13点あり、不明は14点である。瓦当部の文様は型挽き重弧文で、先述の軒丸瓦の項で列挙した遺跡の内、型挽き重弧文の軒平瓦と組み合う軒丸瓦が出土しているのは、上人壇廃寺跡・角田郡山遺跡以外の遺跡である。

軒平瓦切り取り.jpg

図8 赤坂D遺跡の軒平瓦

瓦の年代

 これまで見てきたように、赤坂D遺跡の軒丸瓦及び軒平瓦はいわき市の3遺跡、白河市周辺の4遺跡、北茨城市の大津廃寺跡と近似する特徴を有しており、特に、白河市の遺跡と近似している。しかし、幅の狭い素文の外縁を持つことや交叉鋸歯文の単位が他よりも多いことから、これらの地域とは同等とならずに、やや独自性が表出されていると考えられる。当該資料に関して、夏井廃寺跡及び関和久遺跡では7世紀末から8世紀初頭の年代が与えられていることから、赤坂D遺跡の瓦は8世紀初頭まで遡る可能性も秘めつつ、これに後続する8世紀前葉としておく。

瓦の供給先

 赤坂D遺跡で生産された交叉鋸歯文縁複弁六葉蓮華文の軒丸瓦は、浪江町内はもとより、福島県内の他の遺跡からは出土していない。赤坂D遺跡が所在する双葉郡浪江町は、古代においては標葉郡に属していた。類似する軒丸瓦が出土している先述の遺跡は、それぞれ、磐城郡・白河郡・安積郡・磐瀬郡・伊具郡・多珂郡の当時の郡衙やそれに隣接する寺院、それらに関連する窯跡である。出土した瓦はそれぞれの郡内において共通しており、郡を越えて同じものは認められない。これは、それぞれの郡内で笵が違うということを意味している。このことからすると、赤坂D遺跡の軒丸瓦は標葉郡内の遺跡に供給されていたと考えるのが妥当である。その候補となるのは、当時の郡衙跡及び寺院跡と推定されている双葉町郡山五番遺跡とその周辺の遺跡である。しかし、郡山五番遺跡からは同文の軒丸瓦は出土しておらず、隣接する堂ノ上遺跡からは重弧文の軒平瓦は出土している。これは現段階における状況であり、今後、この地区における新しい発見が期待される。なお、重弧文の軒平瓦が出土している遺跡に着目すると、赤坂D遺跡の南方に所在する鹿屋敷遺跡からも軒平瓦の破片が採集され、塑像の螺髪も出土している。鹿屋敷遺跡において塑像が安置された施設が瓦葺きかどうかは不明であるが、鹿屋敷遺跡が所在する河岸段丘上には古墳時代前期以降の古墳や大規模な集落跡が存在し、当該期の標葉郡においても、郡山五番遺跡等の遺跡が所在する丘陵と並ぶ重要な地域であったことは想像に難くない。この鹿屋敷遺跡も赤坂D遺跡の瓦の供給先の候補の一つに加えておく。

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図9 赤坂D遺跡と関連遺跡

※本稿は、福島県文化財調査報告書第550集『県道広野小高線関連遺跡調査報告3』(2022)の「赤坂D遺跡 総括」を一部改変するとともに、令和3年度遺跡調査部職員研修会での発表を基にしたものである。