調査研究コラム

#091 古墳時代の炉跡のはなし 神林幸太朗

はじめに

 今回は当財団が平成27年度から平成29年度にかけて調査した、須賀川市の高木遺跡を調査した際に調べたことをご紹介したいと思います。福島県中通り地方の須賀川市に所在する高木遺跡は、浜尾遊水地(洪水時に阿武隈川の水を一時的に溜めておく場所)整備に伴い、約36,000㎡という広大な面積を調査しました。その結果、弥生時代終末期、古墳時代前期・後期、奈良時代、平安時代、鎌倉・室町時代の集落跡が確認されました。なかでも古墳時代前期(34世紀ごろ)の集落跡は、阿武隈川が氾濫したことによって堆積した分厚い砂層に覆われていたことによって、多種多様な遺構が残され、当時のムラでの生活を窺い知る事ができる貴重な成果となりました。また、100軒を超える竪穴住居跡が確認され、東北地方のなかでも屈指の規模の集落遺跡であることも判明しました。
 今回はそのなかでも当時の人々のすまい(竪穴住居跡)にのこされた炉跡(火を焚いた場所)に関するお話です。

1.炉の傍らにある石 

 私は高木遺跡の1次調査と3次調査に携わり、3次調査の際に古墳時代前期の竪穴住居跡を調査しました。そのうち、174号住居跡と呼ばれる遺構について取り上げたいと思います。
 この住居跡は、南北6.8m、東西5.2mの長方形と比較的規模が大きく、住居を覆う堆積土や床面からは多数の土器が出土しました。そんな中、床面と思われる部分を精査していると、床土が楕円形に赤く変色している範囲を確認しました。これはこの住居で暮らした人々が、屋内の照明や調理・暖をとるために火を焚いた「炉」の跡でした。この時期の住居跡では「地床炉」と呼ばれる床に残された赤く変色した土の範囲のみで炉跡を認識するのが一般的です。ただ、この住居跡では、赤く変色した土の傍らに長細い石が1個存在していました。良く観察してみると、石は床面にしっかりと埋め込まれており、石の表面には焼けた痕跡も認められました。これらの事から、この石はたまたま炉の近くにあったのではなく、炉の構造の一部(炉石)として機能していたと判断しました。

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写真1 高木遺跡 174号住居跡(報告書掲載写真を一部改変し掲載)

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写真2 174号住居跡の炉跡(報告書掲載写真を一部改変し作成)

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図1 高木遺跡 174号住居跡 実測図(報告書掲載図を改変し掲載)

2.炉の特徴

 調査終了後、全ての竪穴住居の図面を確認してみると、同じような構造の炉がほかにも存在することが分かりました。高木遺跡で古墳時代前期の竪穴住居跡は、112軒確認されています。そのうち、炉跡が確認された住居跡は59軒あり、そのなかでも15軒の炉跡に同じような炉石が設置されていました。
炉石の形・石材 炉石には、長さ2030㎝ほどの細長い自然石が使用されていました。石材は現場で観察した限りでは、近くを流れる阿武隈川で採取できる安山岩などの河原石を使用しており、なんらかの石製品を転用したり、炉石を加工した痕跡などは一切認められませんでした。
設置する炉石の数 炉石の数はほとんどの場合1個で、まれに2~3個設置されるものもあります。2個設置されるものは、同形同大のものを横並びに設置しており、基本的な構造は1個のものと変わりありません。3個のものはやや「コ」の字状になっています。
炉石の位置 炉石の多くは、焼土面(火を焚いて土が赤く変色した範囲)の縁に接して設置されています。焼土面は楕円形となるものが多いのですが、ほとんどの炉石は長軸に直交するように設置されています。また、設置方法については焼土面や床面にそのまま置くものと、床面を少し掘り下げて石を埋め込み固定したものの2通りがありました。また、炉の多くが住居の中央から一方の壁側に寄った場所に位置しますが、炉石は寄った壁とは反対側に設置されます。この時期の竪穴住居は、炉と反対側の壁に入り口が設けられる事が多く、炉石は入り口側に設置される決まりがあったようです。反対側に設置されます。この時期の竪穴住居は、炉と反対側の壁に入り口が設けられる事が多く、炉石は入り口側に設置される決まりがあったようです。

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写真3 炉石1個のもの 195号住(報告書掲載写真より)

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写真4 炉石2個のもの 76号住(報告書掲載写真より)

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図2 高木遺跡の炉(神林2019より)

3.東北にはあまりない…

 このような炉は東北ではどの程度存在するのか調べたところ、実は事例が少ないことがわかりました。高木遺跡が位置する中通り地方は、高木遺跡の調査以前に100軒以上の竪穴住居跡が調査されていますが、炉石を伴う地床炉の事例はわずか19例しか確認されませんでした。その後増加した分を含めた分布図が図3です。福島県中通り地域以外では浜通り地域・会津地域と宮城県域で確認されています。類似構造も含めた事例数は、地域別にみると中通りが11遺跡31例、浜通りが3遺跡9例、会津地域が1遺跡1例、宮城県が6遺跡10例と、非常に限られている事が分かります。なお宮城県の戸ノ内遺跡4号住居跡では自然石のかわりに、土器の破片を炉石のように設置する事例が確認されています(仙台市教育委員会1984)。

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図3 東北の石添炉の分布(筆者作成)

4.この炉はいったい…

 東北では数少ない炉の構造ですが、古墳時代より古い弥生時代の竪穴住居からは確認できない事から、東北以外の地域に由来する要素の可能性を考えました。そして視野を広げて調べてみると、関東地方や中部地方に多数事例があり、いくつかの研究がなされている事を知りました。こうした構造の炉は「石添炉」「礫敷設炉」「枕石炉」などと呼ばれ、炉の一端に置かれる石は「炉縁石」「枕石」「炉石」と呼称されているようです。南関東地方の炉の構造について検討した合田芳正氏の研究によれば、炉石を伴う地床炉は千葉県を除く各地で多数確認されているようです(1999)。また、炉石の事例が少ない千葉県や東京都・神奈川の一部では、炉石のかわりに土器片や粘土を用いるなど、炉の構造の地域性も確認できるようです。
 また、福島県に接する茨城県・栃木県の事例を確認すると、遺跡ごとに炉石・土器片・土製品など、炉に設置される物が異なるという複雑な状況が明らかとなりました(鶴見1996、神林2019)

5.どのように使った?

 以上のような特徴が判明しているのですが、そもそもなぜ石を設置しているのか、どのような使い方をしていたのかという点については判然としていません。杉原荘介氏は静岡県登呂遺跡の調査報告書のなかで、「戸を開いた時の入口からの風をいくらかでも防ごうとしたのか、簡単な調理は炉より奥部に座して、串の先をこれにもたせたのではなかろうか」と、風よけのための構造、または串刺し調理用の構造と述べています(日本考古学協会編1978)。
 また、茨城県の事例を検討した鶴見貞雄氏は、炉石の設置状況や、炉跡に残された土器の出土状態から、薪などの燃焼材の空気調整のために設置されたと想定されています。(鶴見1996)。また東海地方の事例を検討された岩瀬彰利氏も、石に薪を置いて地面から浮かせることにより酸素供給を良くする機能があったと想定しています(岩瀬1996)。さらに岩瀬氏は炉石が一定の方向に設置されることに注目し、実験の結果一定方向から燃料を燃焼させることで、少ない燃料で効率良く煮炊きを行う事が出来た可能性を指摘されています(岩瀬1997)。このような説が出されていますが、決定打となるような事例は無く、詳細は未だ不明と言わざるを得ません。

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図4 炉石の機能 あれこれ(筆者作成)

5.竪穴住居の炉から何がわかるか

 最後に以上の事を踏まえて、高木遺跡の炉からどのような事が考えられるかをまとめてみます。
 まず、高木遺跡で認められた炉石を伴う地床炉について、そのルーツは関東地方にある可能性が考えられました。東北の古墳時代のはじまりには関東から大規模な人の移住があり、特に仙台平野の様相から、関東地方のなかでも千葉県からの影響が強い事が指摘されていました(辻2001)。しかし炉石を伴う地床炉の在り方からは、それ以外の地域からの影響もあった可能性も指摘できるかと思います。特に高木遺跡や中通り地域に関しては地理的環境も考慮すると、北関東の茨城・栃木県との関係が強い可能性が考えられました。
 次になぜ炉石を設置したのかという点については未だ明確な答えを出せていません。
 ただ重要な点は、高木遺跡において炉石を伴う地床炉は、全体の10%弱しか存在しないという点です。これは必ずしもこのような構造が無くとも、日常生活を送るうえでは大きな支障は無いのだと思われます。つまり、一部の人々の何らかのこだわりによってこのような炉が作られ、使われたものと考えられます。
 近年、弥生時代の炉の研究を進められている及川良彦氏によれば、炉の構造に製作・使用者の出自の一端が現れることを指摘し、炉の構造の多様な地域や遺跡は、多様な出自の人で構成される社会であった可能性を指摘しています(及川2017a・b)。
 これを踏まえれば、高木遺跡はさまざまな地域から集まってきた人々が暮らした集落跡ということがいえるかもしれません。また、住居ごとに炉の構造が異なるという事は、集落内において規制や制約が無く、それぞれの家の施設を自由に決めることができる柔軟な社会であったものと思われます。

※本稿は高木遺跡の調査報告書(福島県2019)作成および『福島考古』第61号に掲載した小論(神林2019)をもとに、その後新たに確認された事例を追加して執筆しました。

※今回取り上げた高木遺跡を含む、遺跡調査部で調査した遺跡の発掘調査報告書は、国立奈良文化財研究所が運用している「全国遺跡報告総覧」(https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/list/07/07000?pdf=t)でダウンロードし、閲覧することが出来ます。

古墳時代の東北の炉 福島61PDF.pdf

引用・参考文献

会津坂下町教育委員会2020『稲荷塚遺跡Ⅱ』会津坂下町文化財調査報告書

岩瀬彰利1996「縄文 弥生時代の煮炊き方法」『甕と鍋そのデザイン』第4回 東海考古学フォーラム

岩瀬彰利1997「煮炊き実験 炉形態の違いによる煮炊き効率の差について」『考古学フォーラム』第8号

及川良彦2017a「炉を巡る諸問題1 石床炉の研究(1 前編)」『西相模考古』第26

及川良彦2017b「炉を巡る諸問題2 石床炉の研究(2 後編)」『青山考古』第33

神林幸太朗2019「古墳時代の東北における炉の様相」『福島考古』第61号 福島県考古学会

合田芳正1999「炉址小考」『青山考古』第8号 青山考古学会

仙台市教育委員会1984『戸ノ内遺跡』仙台市文化財調査報告書第70

辻 秀人2001「東北の弥生土器と土師器」『アジア文化史研究』第1号

鶴見貞雄1996「炉石住居覚書」『研究ノート』第2号 茨城県教育財団

浪江町教育委員会2020『北中谷地遺跡』

日本考古学協会編1978『登呂』本編

福島県教育委員会2019『阿武隈川上流河川改修事業高木地区遺跡調査報告 高木遺跡』福島県文化財調査報告書第531