調査研究コラム

#089  カマドの煙突から出土する土器について考える(その2) 丹治篤嘉

1 はじめに

 筆者は、前回のコラム(註1)で、平安時代のカマドの煙突から土師器甕が出土した福島県小野町西田H遺跡1号住居跡(註2)の事例を検討し、わかったことを以下のようにまとめた。

①カマドの燃焼部は意図的に壊されているが、煙突は壊されずに残されていた。

②煙突部分には底部を打ち欠いた土師器甕を転用していた。

③土師器甕は口縁部を下に伏せた状態で設置されていた。

④煙突の底面には、土師器甕を置くための段がつくられていた。

⑤土師器甕の周囲には、土師器甕を煙突として固定するための埋土が入れられていた。

 そして、住居跡が機能していた段階では、煙突の土器が周囲の地面よりも上に飛び出ていたと仮定した場合、土手状の高まりがなくても、周囲からの雨水や土砂の流入を一定程度防ぐ効果があったと推測した。

 今回は、カマドの煙突から土器が出土する特別な事例について検討する。

2 事例の検討

(1)小野町堂田A遺跡2号住居跡(註3)…図1

 堂田A遺跡2号住居跡は平安時代の住居跡である。以下、カマドに関する報告書の記載を引用する。なお、図番号のみは変更して今回掲載の図番号を使用する。

「カマドは北壁やや東側寄りにある。燃焼部の幅は55㎝で、袖の先端から煙道煙出部までの長さは1.95mである。堆積土は18層に区分し図1BB´に示したが、住居内堆積土と区別するためにカマド堆積土は「カ」を付した。そのなかで、カ10121517層は燃焼部に貼土されたものである。袖は花崗岩礫を心材としてカ1214層などで構築されていた。カマドの前面には長方形の花崗岩礫があった。下の面をみると、火を受けたように赤くなっていることと長さ75㎝で袖の上に架けるのに十分な大きさであることから、燃焼部の天井として利用されていたものであろう。

 煙道は天井が遺存し、煙出部には土師器甕が口縁部を下にして据えられていた。これは煙出部の補強のためであろう。煙道の横断面は上部が潰れたような形なので、土圧によるものであろう。高さは撹乱によって明確ではないが37㎝程で、幅は22㎝である。(~中略~)図1-1はカマド煙出部に据え付けられていた土師器甕である。胴部の欠損部には円形状に打ち欠いた部分がある。(~中略)。」

 報告書では、カマド堆積土の堆積要因については、カ1017層がカマドを構築する際の人為堆積土とされているが、カ1~9・18については言及されていない。そこで、報告書に掲載されている図と土層注記を基に考えてみたい。

 燃焼部の天井部として利用されていたとされる長方形の花崗岩礫と接して堆積するカ4層は、白色粘土を含む褐色粘質土とされ、燃焼部内部に遺存する支脚に被さるように堆積することから天井部崩落土と推測される。また、燃焼部からは煮炊きに使用されていたとみられる土師器甕は検出されなかったことから、カ4層はカマドの廃絶にあたって、土師器甕を取り外した際に崩落したと推測される。この下に堆積するカ6・7層は焼土・炭化物を多量に含むにぶい赤褐色土ないし赤褐色土であることから、カマド使用時の堆積土及び天井部の被熱した内面壁が崩落した土を主体とする層とみられる。さらに下に堆積するカ8層はカマドが機能していた段階に煙突から内部に流入した土と思われる。

 カ17層は先述の通りカマドを構築する際の人為堆積土で、図1-1の周囲では土師器甕を煙突に据え付けるための役割があったと考えられる。地面の土と近似した黄褐色土であるカ18層も図1-1の周囲にのみ堆積することから、カ17層と同じ目的の人為堆積土と判断される。

 図1-1の内部に堆積するカ1層は地面の土と近似した黄褐色土で、その下に堆積するカ2層は褐色土と黄褐色土の混土であることから、いずれも人為堆積土と判断される。ただし、カマド構築時に埋められていたものとすると煙突としての役割が果たせなくなることから、カ1・2層は、住居廃絶後に埋められたものと考えられる。残るカ3・5・9層は黒褐色土や褐色土で、明確な混土ではないが、調査者の分層によれば不自然な堆積状況であり、カ1・2層が人為堆積土であることも併せて考えると、やはり住居廃絶後に埋めた土とみるのが妥当であろう(註4)。

 なお、図1-2は土器の実測図でも明らかな通り、底部が欠損している。
 以上から、堂田A遺跡2号住居跡の事例では、西田H遺跡で確認された①~③・⑤と同じ特徴が指摘される。

図1.jpg

図1

(2)小野町堂田A遺跡4号住居跡(註5)…図2

 堂田A遺跡4号住居跡は平安時代の火災住居跡である。報告書によれば、床面中央に炭化物がまとまって検出されたこと、カマドの燃焼部が壊されていることから、失火による火災ではなく住居の廃絶後に廃材などを燃やして片づけたものとされている。
 以下、カマドに関する報告書の記載を引用する。
 「煙道はⅣ層をトンネル状に掘り抜いて造られ、煙出部には土師器甕が口縁部を下にした斜位の状態で据え付けられていた。堆積土は13層に区分した。袖は板状の花崗岩を心材として1113層で構築されていた。(~中略~)図2-1はカマド煙出に据え付けられた土師器甕である。おそらく、補強に用いられたのだろう。甕の形状は楕円形となる。口縁部から胴部上半にかけてはロクロナデ、胴部下半ではケズリ・ナデがなされているので、それぞれ別に作って胴部中程で接合したのであろう。内面にはススが付着していた。」

 報告書では、カマド堆積土の堆積要因については、1113層が袖の構築土であることしか触れられていない。そこで、報告書に掲載されている図と土層注記を基に考えてみたい。

 まず、図2―1の土師器甕の周囲に堆積している8層が煙突に据え付けるための土と推測される。土層注記によれば、8層は白色砂粒・褐色土を含む暗褐色土である。
 燃焼部に堆積する5層及び9層は焼土塊や炭化物を多量に含む層であることから、カマド使用時の堆積土及び天井部の被熱した内面壁が崩れた土を主体とした層とみられる。
 この下に堆積するのは7層と10層である。7層は煙道部に認められ、炭化物粒・焼土粒を含む暗褐色土でカマド使用時の堆積土とみられる。10層は白色砂粒・褐色土を含む黒褐色土である。堆積する位置からすれば、天井部の崩落土を主体とする層と推測されるが、袖構築土に認められる白色粘土や灰白色粘土が含まれていない点が腑に落ちない。また、この上に堆積する4・6層も10層と近似した層であり、他に明確な天井部崩落土が確認されているわけでもない。このため、カマドの廃絶に際し、煮炊きに使用した土師器甕を取り外した際に天井部構築土を取り去った可能性もある。ただ、10層は、袖構築土の11層と近似した黒褐色土であること、図2-1を煙突に据え付けるための埋土と推測される8層と含有物が同じ白色砂粒・褐色土であることから、人為堆積土、すなわち天井部を構成していた層である可能性が考えられる。いずれにせよ、煮炊きに使用した土師器甕が遺存しないことから、燃焼部の天井部は壊されていると判断される。

 1・2・3は住居廃絶後の流入土で、4・6層は流入土、あるいは10層と近似することから燃焼部の天井部構築土のいずれかであろう。
 なお、図2-1は掲載図でも明らかな通り、底部が欠損している。また、図2-1の内面で確認されたススは、煙突として使用された痕跡と推測される。
 以上から、堂田A遺跡4号住居跡の事例では、西田H遺跡で確認された①~③・⑤と同じ特徴が指摘される。

図2.jpg

3 まとめと今後の課題

 今回の二つの事例では、いずれも西田H遺跡で確認された④以外の特徴が指摘された。すなわち、カマドの煙突部分には底部を打ち欠いた土師器甕を転用していること、土師器甕は口縁部を下に伏せた状態で設置されていること、土師器甕の周囲には土師器甕を煙突として固定するための埋土が入れられていること、そして、カマドの燃焼部は意図的に壊されているが、煙突は壊されずに残されていることが確認された。今回検討した堂田A遺跡は西田H遺跡から約200mの距離に位置する遺跡であるが、このような事例は他地域でも認められるため、西田H遺跡周辺の非常に限定された地域特有のものというわけではないと考えている。次回は、このことを裏付ける他地域の事例について言及する予定である。

 最後に今後の課題を述べておきたい。2回にわたって検討した煙突部分に土師器甕が設置されたまま見つかる事例は、管見によれば決して多くはなく、むしろ少数派といえる。ただし、実際に設置することが少なかったのか、廃絶の際に煙突に設置していた土器を取り外すことが一般的だったのかは、現段階では明確な答えは持ち合わせていない。煙出部からバラバラになった土師器甕が出土することもしばしば認められ、それらが一定程度復元されることもある。このような事例をどう考えたらよいだろうか。

 筆者はかつてカマド燃焼部における遺物の出土状況を検討し、住居の廃絶後も燃焼部に土師器甕が設置されたまま残されていることは稀で、大半が壊されていること、燃焼部から土師器甕が出土する場合は、カマドの掛け口に設置していたものを廃棄にあたって置いたと考えても差し支えない大きさのものが多いことを指摘した(註6)。このことを念頭に置けば、もともと煙突に設置していた土師器甕を廃絶に際して壊して煙出部に入れた可能性もあると思われる。

 ただ、煙出部からは煙突として用いられたとは考えられない土師器甕以外の遺物が見つかることもあり、話しは単純ではない。これらの性格を明らかにするためには、設置されたまま残されているものだけではなく、廃棄行為に伴うとみられる事例も併せて考えていく必要がある。その際、重要なのは、出土遺物周辺の堆積土について、その堆積要因を明らかにすることである。筆者は、先にも触れたカマド燃焼部における遺物の出土状況を検討した際、各報告書には燃焼部に堆積する土の堆積要因に関する記述が少ないと感じていたが、煙道部にいたってはさらに少ないのが現状である。警鐘を鳴らすとともに、筆者自身はさらなる検討を重ね、これらの性格について考えていきたい。

(註1)丹治篤嘉 2018 「#066 カマドの煙突から出土する土器について考える」『公益財団法人福島県文化振興財団遺跡調査部ホームページ』

https://www.fcp.or.jp/iseki/column/342

(註2)福島県教育委員会 2005 「西田H遺跡」『こまちダム遺跡発掘調査報告3』福島県文化財調査報告書第424

(註3)福島県教育委員会 2005 「堂田A遺跡」『こまちダム遺跡発掘調査報告3』福島県文化財調査報告書第424

(註4)ただし、カ1・2層が住居廃絶後のいつの段階で埋められたのかは厳密には断定できない。そのため、住居廃絶からかなり後になって、後世の人が邪魔な穴を埋めたというケースもないとは言い切れない。その場合、カ3・5・9層は煙突から流入した土である可能性も残されている。

(註5)註3と同じ。

(註6)丹治篤嘉 2010 「カマド燃焼部における遺物出土状況の検討」『福島県文化財センター白河館研究紀要2009』(https://www.fcp.or.jp/mahoron/kiyou/pdf/2009_1.pdf

ただし、燃焼部から出土した土師器甕のすべてが掛け口に設置していたものとは明らかに考え難い数のものが遺棄されているケースもあるので一概には言えない点は注意を要する。

【挿図出典】

図1・2…註3文献より転載・一部改変して作成