調査研究コラム

#088 「ところ変われば…  -縄文土器の製作痕跡に現れた地域差の一例-」 高木晃

1 はじめに

 私は岩手県の財団から1年間出向して下郷町栗林遺跡の調査、整理に従事しています。今年度出土した土器の接合作業中に気づいた事を紹介したいと思います。

 土器の接合はよくジグソーパズルに例えられます。文様や形態、破片の色調などを手がかりに同一個体を集め、接合関係を確認して組み立てていく作業は、慣れないと少々厄介なものです。これにはちょっとしたコツがあって、破片の向き、天地方向を揃えておけば効率よく進められるということは、作業を行っている方ならご存じかと思います。

 そこで私もいつものように、乱雑に集められた破片1個ずつの天地方向を確認して向きを揃えていきました。手に取ったのは縄文時代中期後葉の大木9式土器でしたが、文様が断片的にしかなかったため手がかりとするのは土器の割れ口の傾斜方向です。土器の割れ口には、製作した際に粘土紐を積み上げた痕跡(=輪積痕)が含まれていることがあり、多くは一定間隔で水平方向の割れ口が平行する状態で観察されます。輪積痕は平坦ではなく内側か外側に傾斜するのが通常で、外面側が低くなる傾斜は「外傾」、逆に内面側が低くなる傾斜は「内傾」と呼ばれます(佐原1964)。同じ破片でも天地方向を逆にすれば、外傾の輪積痕が内傾に見えるということになります(図1)。

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 図1 輪積痕の傾斜方向 

経験上、岩手県の縄文時代中期後葉から後期前葉にかけての土器では輪積痕は外傾となるのが当たり前、これによってほぼ間違いなく天地方向を揃えることができました(註1・図2)。

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 図2 川目A遺跡(岩手県盛岡市)出土土器の輪積み変化

 ところが上記の栗林遺跡出土土器を接合していて、同様に輪積痕を外傾と見て作業したところ、どうも上手くいきません。その理由は内傾の輪積痕を持つため、天地を逆に見ていた破片が含まれていたせいでした(図3)。他の個体についても輪積痕の傾斜を観察したところ、外傾が多い一方で1~2割程度の土器では内傾となっています。また、外傾か内傾か判断し難いものも一定数含まれることがわかりました。

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図3 内傾の輪積痕が見られる栗林遺跡出土土器

2 土器の輪積痕

 縄文土器の研究では器形、文様に基づいて詳細な型式編年が組み立てられているのに比べ、製作や使用についての調査、研究はどちらかというとマイナーな分野というのは否めません。それでも縄文土器や弥生土器に残る輪積痕の観察に基づく研究は、佐原(1967)、藤原・森岡(1977)、家根(1984)、高橋(1988)、鈴木・西脇(2002)、可児(2005)、中尾(2012)等によって進められ、一定の成果が得られています。この中で東日本における縄文土器の輪積痕を対象として、地域差や時代による変化、またその違いが現れる理由について考察した小林ほか(2012)では、以下のような傾向が捉えられています。

 東北地方では前期から後期前葉にかけては基本的に外傾接合が採用されている。後期中葉になって急激に内傾への変換が行われ、晩期にかけて継続する。一方、関東地方では前期以来採用されていた外傾接合が中期後葉の加曽利E式段階で内傾への変化が生じ、以降は後期~晩期を通じて内傾となっている。これらの変化が生じた理由として、キャリパー形等の上部が広がる器形を作る際に、粘土紐を積み上げても「へたりにくい」内傾が選択されたのが大きいとされています(註2)。

 また、どのような製作技法で外傾、内傾の違いが生じたかのという点について小林ほか(前掲)では、積み上げた粘土紐を接着する際に、下に押さえつけるように動かす親指、上になで上げるように動かす人差し指と中指、この両者の位置によって異なる輪積痕が現れることが述べられています。親指が土器の外側にあれば外傾接合、親指が内側にあれば内傾接合というわけです(図4)。

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 図4 外傾接合・内傾接合の指使い

 先に紹介した栗林遺跡の事例は、関東地方で縄文時代中期後葉に内傾接合が一般的になる時期に相当します。会津に位置する栗林遺跡では、東北地方の大木式土器と共に北関東に分布する阿玉台式土器や加曽利E式土器が出土し、栃木県高原山の黒曜石製石器が多く見つかるといったように、東北南部でも関東との結びつきが強い地域だったと考えられます。土器作りにおいて、それまでの外傾接合に加えて内傾接合が取り入れられたのは、土器の作り手を含む人々の移動を示唆するものかも知れません。

3 外に現れる特徴、内に秘められた情報

 栗林遺跡の大木9式土器は一見すると、私が岩手県で接してきた大木9式土器と外観での大きな違いはありません(註3)。図5の土器はどちらも沈線を用いて縦に細く引き延ばされた楕円形のモチーフを並列させ、区画の内部には縄文が充填施文されます。縦長で緩くカーブする器形もよく似ています。

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 図5 岩手県と福島県の大木9式土器

 こうした完成形としての土器の表面に現れる文様や器形といった特徴は、外見をまねることで同じ(ような)ものを作ることができます。一方、輪積痕のように製作の手順や粘土の扱い方が同じでないと異なる特徴が現れる要素があります。鈴木・西脇(2002)は前者を「表出的属性」、後者を「内在的属性」として区別して考える必要性を説きました。内在的属性は、「製作時の時間・場面を共有」することによって伝達されるものであり、「製作者の違いを論じるには内在的属性が重要」(鈴木・西脇前掲)という視点です。会津地方から関東や北陸の土器が出土する意味や背景を考える上でも、参考にすべきアプローチだと思われます。

 今回は、直接土器を手にとって作業することで気づいたことを取り上げました。栗林遺跡の土器だけしか見ていないので、福島県域全体での輪積痕の特徴を云々できるものではありませんが、表面的には類似する遺物が分布する地域であっても、製作の細かな差異に着目すれば異なる分布図が描ける可能性があります。また、そうした事を考える上で遺物をじっくりと観察する大切さを改めて実感しました。

註1 盛岡市川目A遺跡第5次調査出土資料では、中期中葉から後期前葉までの731点中、外傾接合が477点(65%)、蒲鉾形もしくは不明が253点(35%)、内傾接合は1点(0.1%)という状態で、基本的に当該期の土器は外傾接合によって作られている事が判明しています。

註2 戸村(2020)は加曽利E式のキャリパー形土器を成形する際に、胴部が外傾接合によって作られる土器でも、大きく開く口縁部は内傾接合を採用するケースが多く、器形、部位によって適する技法を駆使していることを明らかにしています。

註3 岩手県域では北半と南半とで土器の様相が異なっており、ここで福島県の土器と共通するとしたものは県南に分布する土器を指しています。

<引用・参照文献リスト>

岩手県文化振興事業団(2012)『川目A遺跡第5次発掘調査報告書』

岩手県文化振興事業団(2020)『長谷堂貝塚発掘調査報告書』

可児通宏(2005)『縄文土器の技法』同成社

小林正史(2017)「四 使い方との関連からみた土器の製作技術」『モノと技術の古代史 陶芸編』

吉川弘文館

小林正史・鐘ヶ江賢二(2015)「縄文土器の紐積み方法の復元とそれらの技術を選択した理由の解明」

『特別史跡三内丸山遺跡年報』18

小林正史・高木晃・岡本洋・永嶋豊(2012)「縄文土器の紐積み成形における「外傾接合か内傾接合か」 の選択理由」『特別史跡三内丸山遺跡年報』15

佐原真(1967)「山城における弥生式文化の成立-畿内第Ⅰ様式の細別と雲ノ宮遺跡出土土器の占める位 置-」『史林』50巻5号

鈴木信・西脇対名夫(2002)「北海道縄文晩期後葉の土器製作技法について-江別市対雁2遺跡土器集中 1の事例から-」『立命館大学考古学論集』Ⅲ

高橋護(1988)「弥生土器の製作に関する基礎的考察」『考古学と関連科学』鎌木義昌先生古希記念論集

戸村正巳(2020)「縄文土器の製作技法を探る(1)-成形- 「短冊状土器破片」が示す加曽利E式土 器の成形について」『貝塚博物館紀要』第46号

中尾智行(2012)「<外傾接合>を考える」『菟原Ⅱ』盛岡秀人さん還暦記念論文集

藤原学・森岡秀人(1977)「弥生遺跡に伴う焼土坑について」『河内長野大師山』関西大学考古学研究室

家根祥多(1984)「縄文土器から弥生土器へ」『縄文から弥生へ』帝塚山考古学研究所