調査研究コラム

#075 縄文時代以外の陥穴 渡辺 和行

はじめまして、山形県埋蔵文化財センターから復興支援で来ています渡辺と申します。今回は私が調査した、山形県村山市にある沼田2遺跡の陥穴について紹介したいと思います。
 まず、沼田2遺跡について紹介しますと、平成22年度に山形県埋蔵文化財センターが東北中央道(東根~尾花沢)建設事業に伴い、調査した遺跡で、山形県の東側中央部にあたる村山市にあります。現地形は丘陵にあたり、遺跡の西には最上川の支流である沢の目川が北へ流れています。調査前の地目は畑地で葡萄を栽培していたと近所の方から聞きました。周辺は果樹園でサクランボの栽培を行っていました。付近には縄文時代早期の遺跡である赤石 遺跡や、縄文時代中期の大木7bから8b式期に相当する遺跡である、落合遺跡が存在しています。
 沼田2遺跡から検出された遺構は、今回テーマとする陥穴のほかに溝跡・土坑・ピット、そして倒木痕があります。遺物は土坑やピットから縄文早期・晩期の土器片・石器類、その他に溝跡から平安時代に属する須恵器や土師器が出土しました。また、近代の造成、もしくは畑の開墾時に入り込んだであろう陶器片などが出土しました。遺物の総量は少なく、また住居跡がないことから居住域とは離れた場所に位置した遺跡であることがいえます。

陥穴列(図1)
 陥穴は調査区西側中央にある、水場と考えられる遺構に向かい、調査区北東から南西に向かい5基検出されました。検出当初は陥穴列と認識しておらず、小判型の土坑としてそれぞれを認識していました。遺構の精査を進めていく段階で、深さや形状に共通性が確認され、また、それらが列をなすことから初めて気付いた次第です。

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図1 沼田2遺跡:陥穴例

ただ、言い訳を申しますと、精査の段階でこの陥穴列の内、1基から金属製品が出土しており、陥穴は縄文時代のものだと思い込んでいた私は陥穴という可能性を排除しておりました。また、その遺物に対して陥穴列だと気付いてからは出土した地点が検出面に近い上層部であったことから流れ込んで来たものであろうという解釈でいました。その理由としてこの陥穴列の南側の溝跡で、覆土から古代の須恵器片や土師器片が出土していたため、この陥穴付近でも平安時代の人々が何らかの活動を行っていたと考えられました。
 また、陥穴をそれぞれ精査していく段階で、共通の火山灰層(図2)が覆土の下層に堆積していることが確認出来ました。
 純層のため、二次堆積では一次堆積だと判断しました。これにより、各陥穴が同じ時期のものと判断し、陥穴列として機能していたと確信した次第です。もちろん、火山灰層以外の土層堆積も類似していました。実はこの火山灰についても、私は勘違いをします。前提条件として、縄文時代の遺構であると考えていますから、この火山灰を6,200年前に、降灰した十和田中掫テフラ(To-Cu)と考えていました。

#75_02.jpg図2 陥穴1 個別図

つまり、この段階ではこの陥穴列を縄文中期のものと考えていました。この勘違いは、整理作業で理化学分析の結果を得るまで続きます。
 また、陥穴の性質上、堆積土壌中に遺物を含むことは稀です。今回もその例に漏れず、年代を推定しうる遺物は出土しませんでした。そのため、縄文時代のものであるという論証を得るため、北東隅で検出した陥穴の床面で検出した、土壌をサンプリングしました。精査の段階では床面に押し込まれた形で埋まった、木材だと判断し、木質部分が残っていると考えていましたが、分析を行う段階で残っていないことが判明しました。とはいえ、土壌でも年代測定は可能ということで測定していただきました。
 さて、分析結果です。
 火山灰はTo-a(十和田火山灰)、つまり、西暦915年に降灰した火山灰であるとの測定結果が示されました。また、土壌の年代測定の結果、約1,600年前の数値を示されました。つまり、この測定結果からどう考えても縄文時代の陥穴列ではなくなったのです。では、いつのものか、測定結果からすると、5世紀に開口していたことになりますが、測定した土壌が必ずしも開口当時に形成され混入したという根拠はありません。この結果からは少なくとも5世紀以降に陥穴が構築されたということがわかるだけということになります。また、埋没は十和田a火山灰が降灰する辺りで始まったとしかいえません。ただし、火山灰層の下層は床面まで5㎝程度の層しかありません。この5㎝が堆積するまでにどれだけの年数が必要であったのかは不明ですが、陥穴に堆積した覆土の花粉分析によれば、クリやブナ属などの落葉広葉樹が陥穴周辺にはえていたと考えられますし、その5㎝の土壌が堆積するまで長い期間が必要であったとは考え難いといえます。

#75_03.jpg図3 陥穴5 断面写真

いずれにせよ、915年以降に埋没した陥穴の覆土に金属製品が混入していても問題ありません。「陥穴は縄文時代に属する」と思い込んでいた私の先入観は崩れました。狩猟は稲作などの農耕が行われるようになってのち、少なくなっていったかもしれません。しかし、少なくとも、当地域では陥穴による動物の捕獲を縄文時代以降も行っていたが判明しました。

山形県における縄文時代以外の可能性がある陥穴
 この他に山形県寒河江市の高瀬山遺跡(HO地区)において、その可能性のある遺構が検出されています。9区4号土坑と名付けられた遺構です(図4)。報文中では覆土から須恵器・陶器の小片が出土しているとされていますが平面形をもって縄文時代の陥穴と報告されています。平面形は楕円形で検出面からの深さは60㎝、壁は垂直に近い角度で立ち上がり、底面には径20㎝、深さ35㎝の逆茂木用のピットが掘り込まれていたとされています。この遺跡では他にも陥穴が検出されています。これらも縄文時代の構築とされていますが、遺物の出土はありません。この4号土坑の覆土は7.5YRを基準とした土色とされていますが、他の陥穴は10YRを基準とした覆土が堆積しており、これら遺構との差異がみられます。また、平面形も4号が楕円形であるのに対し、その他の陥穴が隅丸方形、もしくは長円形であることから時期差もしくは、狩猟対象となる獲物が違ったとも考えられます。

長野県の中世的陥穴(図5)
 長野県では、中世の陥穴が確認されています。特徴は壁面における金属製工具による掘削痕跡、底部構造の逆茂木の設置方法があげられるようです。当該地域の縄文時代における逆茂木はあまり加工せずに土を掘り設置後に埋め戻ようですが、中世に属する逆茂木は土壌に埋設する部分を四面切断し、杭状にした上で「カケヤ」状の道具を使用し打ち込みで設置されたとしています。こういった特徴を持つ逆茂木の、残存している部分に対して、放射性炭素年代測定を行い、中世後半の年代を得ています。この様な陥穴は鹿を対象に設置されたと考えられているようです。

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図4 高瀬山遺跡(HO地区) 9区検出の陥穴

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図5 長野県馬捨遺跡 検出の陥穴

終わりに
 陥穴から遺物が出土することは稀です。そのため、時期決定は難しいといえます。
 そのような中で遺物が出土した場合、その遺物の年代付近に構築されたものと考えたくなるでしょう。しかし、覆土は様々な要因で堆積します。例えば、縄文土器を含んだ包含層の上層から平安時代の人たちが陥穴を掘り込めば、何らかの原因で縄文土器の包含層が崩れ遺構内に堆積する場合もあります。場合によっては床面にその覆土が堆積する場合だってあるでしょう。ですので、陥穴の年代を決定する場合は周辺土層の堆積状況も含め、形状や構築時の掘削の工具痕、また、逆茂木が残存していれば、それに対する放射性炭素年代測定を行う必要もあると思います。
 陥穴は狩猟の痕跡であり、各時代・各地域の人々の食生活がどのように変化していったかをあらわす遺構です。農耕が始まって以降、様々状況により野菜が育たない時期もあったと思います。そのようなとき、食糧確保をどのようにおこなったか、陥穴はそのような検討も出来る遺構ではないでしょうか?

参考引用文献
(公財)山形県埋蔵文化財センター 2015 「沼田1・沼田2遺跡発掘調査報告書」山形県埋蔵文化財センター調査報告書第221集
(財)山形県埋蔵文化財センター 2005 「高瀬山遺跡(HO地区)発掘調査報告書」山形県埋蔵文化財センター調査報告書第145集
長野県埋蔵文化財センター 2002 「馬捨場遺跡」長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書58
桜井秀雄 2006 「八ヶ岳南麓の中世陥し穴」金沢大学考古学紀要28 p116-131