調査研究コラム

#084 汽車土瓶について  吉野 滋夫

 私が以前から気になっていた遺物があります。それは、汽車土瓶(きしゃどびん)(1)です。その契機となったのは、大学生の頃に考古学実習の一環で、栃木県芳賀郡益子町(ましこまち)に所在する大平・滝沢窯の発掘調査に参加したのがはじまりです。
 大平・滝沢窯は益子焼(ましこやき)の窯跡で、創業は幕末頃とされています。不良品を廃棄した捨場から、大正半ば頃の汽車土瓶が多量に出土しました。出土した汽車土瓶には、各地の駅名が書かれ、非常に身近なものとして感じました。そのなかには、福島県内の駅名「郡山」・「白河」・「若松(註2)」もありました。また、このことから益子焼の販路が関東地方のみならず、東北地方にまで広がっていたことが分かります。

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              汽車土瓶実測図

福島県でも、会津美里町(あいづみさとまち)に所在する会津本郷焼(あいづほんごうやき)の窯元で、汽車土瓶が焼かれていました。その時期は、昭和のはじめから、太平洋戦争の敗戦前後までです。ここでの汽車土瓶(註3)はその形状が角型で、泥漿鋳込(でいしょういこみ)成形 (4)によりつくられています。
会津本郷焼の汽車土瓶は、宮城県仙台市長町駅東遺跡(註5)、大阪府摂津市明和池遺跡(註6)などから見つかっています。これらの遺跡では、操車場が設置され、鉄道の客車の清掃・塵芥処理などが行われたものとみられます。さらに、会津本郷焼の汽車土瓶が、関西にまで販路があったことが分かります。
汽車土瓶は、信楽・瀬戸・美濃・常滑など焼き物の産地でも焼かれていますが、ここでは福島県に関連する資料について紹介しました。
汽車土瓶は近現代の遺物であり、その取扱いは一考を要するものではあります。しかし、当時の姿を示す資料と言えましょう。

1:駅弁と共に販売されていたお茶を入れた土瓶のことです。汽車土瓶の胴部には販売していた駅名と弁当屋名が書かれています。なお、初期のものには駅名・弁当屋名は書かれていません。従来の土瓶を小型化して商品化していたようです。

2:若松駅は、大正6(1917)年4月21日に会津若松駅に改称されていますので、それ以前のものであることが分かる資料です。(2007年 会津若松市史研究会『会津若松市史9会津、大正から戦中へ』会津若松市)

3:角型の汽車土瓶を汽車茶瓶と記しているものもありますが、ここでは汽車土瓶の名称で統一しました。

4:「陶磁器の成形方法の一種で、型に流し込んだ泥漿(陶土に水を混ぜて液状や粘土の高いクリーム状にしたもの)を型の吸水性を利用して成形する。」(2007年 畑中英二編『信楽汽車土瓶』サンライズ出版)

5:長町駅東遺跡には、長町操車場が設けられ大正141925)年から昭和591984)年まで機能していました。

6:明和池遺跡は、隣接する吹田市吹田操車場と一連の遺跡と考えられています。吹田操車場は大正121923)年から昭和591984)年まで貨車専用の操車場として機能していました。しかし、昭和3(1928)年から昭和8(1933)年の間は客車操車場が併設されていたので、汽車土瓶はその頃のものとすることができます。

引用・参考文献

1990年 国士舘大学文学部考古学研究室「大平・滝沢窯」『益子の近世窯業遺跡』

1995年 窯業史博物館『汽車土瓶』

2011年 財団法人大阪府文化財センター『吹田操車場遺跡Ⅴ』

2011年 辻本 武「吹田操車場跡地で出土した汽車土瓶と刻印煉瓦」『大阪文化財研究 第39号』 公益財団法人大阪府文化財センター

2014年 仙台市教育委員会『長町駅東遺跡第1011次調査』