調査研究コラム

#083 古墳のそばにポツンと一軒家 神林 幸太朗

1 はじめに

 近年、大阪の百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録されるなど、古墳やそこから出土する遺物に注目が集まっています。福島県にも、会津大塚山古墳をはじめ多数の古墳があります。古墳の調査も積極的に行われており、それらの成果は福島県のみならず、日本の歴史や文化を考える上で欠かせないものとなっています。
 古墳時代を考えるうえで、当時の有力者のお墓である古墳が最も重視されるのですが、私自身は当時の人々の日常生活の舞台である集落や住居、生活に使用した土器などの道具類に注目して研究をしています。これらを研究することで、古墳からはなかなか見えてこない、当時の一般庶民の様子より詳細に見えてくると考えています。
 今回はそのような視点から、古墳時代の始まりの時期(前期)の古墳と、その傍に位置するポツンと一軒家(竪穴住居跡)について、ふと思ったことを書いてみたいと思います。

2 こんな所にポツンと一軒家 -須賀川市 仲ノ平古墳群-

 古墳群の概要 仲ノ平古墳群は福島県の中通り、須賀川市に位置する古墳群です。阿武隈川の東岸の丘陵上に立地しています。南東には当財団が調査を行った高木遺跡が位置しており、同時期の集落跡が確認されています。
 古墳群は昭和61年に調査が行われ11基の古墳が確認されました(須賀川市教育委員会1987)。このうち3号墳(地図の赤丸)6号墳(地図の黄丸)が前期古墳であるとされています。残念ながら遺存状況があまり良くなく、埋葬施設など不明な点も多いのですが、3号墳は墳丘長17.5m、6号墳は墳丘長26mの前方後方墳の可能性が考えられています。

図1.jpg

〔図1〕仲ノ平古墳群 全体図 (須賀川市教育委員会1987を一部改変し作成)

 住居跡の特徴 第5号住居跡は全体図に地点が表示されていませんが、5号墳(古墳時代後期~終末期)の北西に隣接して位置していたと記されています(1の★マークのあたりと思われます)
 平面形は南北5.3m、東西5.5mの方形で、深さは約60㎝と比較的残りの良い状態で確認された住居跡です。床面は地山をそのまま床としており、「壁に沿った幅1mほどの範囲は中心部に比べ5~10㎝程高くなっており…」との記載から、いわゆる「ベッド状遺構」が設けられていたと思われます。この「ベッド状遺構」には構造や機能がいくつかあるようですが、人が座ったり、寝起きをする空間である可能性が考えられています。その他には、火を焚いた「炉」、食料などを保管したとみられる「貯蔵穴」、屋根を支える柱を立てた「柱穴」などが確認されており、生活するのに必要な施設が一通り確認されています。
 また床面からは、この竪穴で使用されたとみられる土器が多く出土しています。食べ物を調理するための「甕」、食糧や種籾などを貯蔵したとみられる「壺」、食事を盛り付ける「高杯」、祭祀の際に使用したとみられる「器台」など、生活に必要な道具は一式揃っていました。

図2.jpg

〔図2〕仲ノ平古墳群 5号住居跡(須賀川市教育委員会1987を一部改変し作成)

3 ちょっと不思議な一軒家

 はじめてこの住居跡の存在を知った時、「お墓の傍にわざわざしっかりとした家を建てるなんて古墳時代にも物好きな人がいたんだなぁ…、お墓の横の一軒家なんて怖くないのかな?」くらいに考えていたのですが、よくよくこの住居をみてみると少々おかしな点がいくつもあることに気づきました。
変わった造りの炉 まず不思議に感じたのは炉の構造です。この住居跡では大きな壺の底部を床に埋設して、そのわきに川原石をひとつ置くという構造の炉が確認されています。東北地方の古墳時代前期の竪穴住居は床面でそのまま火を焚く「地床炉」という構造がほとんどです。近隣の高木遺跡では河原石を置いたり、粘土を貼り付けたりする構造が確認されていますが、このような炉は確認されませんでした。もちろん東北地方全体でもこのような炉は他に見当たりません。
 竪穴の壁に掘られた横穴 また、竪穴の北東側には竪穴の壁側から掘られた張り出しピットが確認されています。堆積土の観察から天井があった事が想定されていて、本来はトンネル状に掘られた横穴であったものと思われます。底面は床面と同じ高さで、床面同様に踏み締まっている事から、この中を人が移動した可能性が考えられます。先端部は比較的しっかりと立ち上がっているように見えます。この施設も炉と同様に、東北地方に類例を見出せませんでした。
 胴長の甕形土器 また出土した甕形土器にも違和感を覚えました。この時期の東北地方では「塩釜甕」などと呼称される「く」の字の口縁部に、丸い胴部、平らな底部を特徴とした甕が製作・使用されます。仲ノ平5号住居跡の甕形土器も基本的にはそのような特徴がみられるのですが、やや胴部の張りが弱く胴長な器形をしている印象を受けました。また土器の内面を丁寧に磨いている点も東北ではあまり一般的ではありません(図2の点線で囲った土器)。

4 どんな人が建てたお家?

 上述した不思議な点について、ちょっと視野を広くして調べてみました。
 まず土器を埋設した炉については、現在の長野県・山梨県のあたりに多く類例があることが分かりました(小山2017)。なかでも長野県の佐久盆地のあたりでは、壺や甕の底部などを埋設した炉が、弥生時代中期ごろから存在し古墳時代前期まで作り続けられるようです。
 次に住居の壁に掘られた横穴ですが、群馬県富岡市に位置する中高瀬観音山遺跡(弥生時代後期)で確認されています(群馬県埋蔵文化財調査事業団1995)。報告書内では「トンネル土坑付き竪穴」と呼ばれており、なかにはトンネル状に竪穴外に長く延びて土坑状の開口部と接続するものもみられます。この遺構を検討した久世辰男氏は、深い竪穴に出入りするのに困難な人や場面を想定した、通常とは異なる特殊な出入口であると推察しています(久世1997)。
 甕形土器については明確な類似例を確認できていません。しかし上述した長野や群馬の弥生時代後期から古墳時代初頭の土器をみると、比較的長胴気味の器形や、内面を丁寧に磨く手法を多く見出だす事が出来ます。

図3.jpg

〔図3〕 類似する遺構(各報告書より転載し作成)

 以上のことから、仲ノ平古墳群につくられた竪穴住居でみられた不思議な点は、福島から遠く離れた中部地方やその周辺にみられる特徴である可能性が考えられました。つまり古墳というお墓の横にある一軒家に暮らしていたのは、他の地域にルーツを持つ「ヨソモノ」だった可能性が高いのです。

5 こんなところにもポツンと一軒家

 実は同じような事例が、福島県浪江町に位置する本屋敷古墳群でも確認されていたことに気づきました。

ここでも3基の古墳(この住居跡がつくられ段階ではおそらく1・2号墳の2基)に隣接して、ポツンと一軒不思議な竪穴住居跡が確認されています(法政大学1985)。

本屋敷 全体図 色付き.jpg

〔図4 本屋敷古墳群 全体図〕

 住居跡の平面形は円形で、内部には火を焚いた炉、屋根を支える柱を立てた柱穴が認められます。また、生活に使用したとみられる壺や甕といった土器が残されていました。
 まず竪穴の平面形が円形である点が非常に特徴的です。この時期東北の住居は基本的には方形を基調としているからです。このような特徴の建物跡は北陸地方の富山県などにみられるようです(阿部・伊藤1993)。また出土した甕の口縁部には「面取り」が施されています。これも北陸地方の土器に特徴的な要素です。
 このように本屋敷古墳群においても、古墳の傍のポツンと一軒家には他地域にルーツをもつ「ヨソモノ」が住んでいたと考えられるのです。

図5.jpg

〔図5 本屋敷古墳群 2号住居跡〕

6 どうしてこんなところに家を建てたのか

 古墳というのは単なるお墓ではなく、その地域や集団のリーダーや有力者を埋葬したお墓であり、モニュメントでもあります。そして古墳の築造や、その後の葬送儀礼は地域社会に暮らす人々とって一大イベントであった事が考えられます。そのような地域社会にとって大切な古墳の傍にどうして「ヨソモノ」のような人が家を建て生活していたのでしょうか。柳沼賢治氏は仲ノ平古墳群5号住居跡について、3号墳築造に関わる遺構との見解を示されています(柳沼2012)。
 古墳の築造に関する遺構(建物)とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。残念ながら仲ノ平古墳群・本屋敷古墳群ともに、それを直接窺い知ることのできる遺物などは出土していません。しかし先行研究などを参考にすると、以下のような可能性が考えられるかと思います。

  • 喪屋

「殯」(もがり)とよばれる葬送儀礼を行なうための建物を「喪屋」(もや)と呼びます。殯とは『民俗小事典 死と葬送』によると「日本の古代においては、人が亡くなると直ちに埋葬せずに、棺をモヤ(喪屋)や殯宮に仮安置する風習があり、その期間親族たちは喪に服し、近隣の人々や故人に所縁のある人々は様々な儀礼を行なって霊魂を慰撫した」とされています。またその際に使用される喪屋については「死者の近親者が遺骸とともに、またその近くで忌籠りの生活をする建物のこと。喪屋の中で殯の行事をした。」とされています。
 このような定義を考慮すると、「喪屋」はたんに遺骸を安置するための小屋ではなく、一定期間近親者が生活するためのすまいである必要があります。仲ノ平・本屋敷両古墳群の竪穴建物はともに、屋根を支える柱穴をもち、火を焚く炉が存在することから、一般的な竪穴建物と同様に生活をするのに問題ない構造です。一方で「喪屋」としての竪穴建物は柱穴を持たない比較的簡素な造りのものが多いとの指摘もなされています(水澤2015)。今回確認したポツンと一軒家は、いずれも比較的しっかりとした構造の住居跡である点が異なります。

  • 古墳築造および葬送儀礼を指揮する人々のすまい

 古墳の築造は非常に大規模な土木工事であり、単に土を運んで盛り上げるだけの単純作業ではありません。しっかりとした知識と技術、多岐にわたる作業工程を適切に管理・運営する、技術者や指揮者が必要不可欠です。ところが東北では古墳時代以前に、大規模に土を盛り上げてお墓を作ることはしなかったので、そうした技術は他地域からもたらされたと考えられます。例えば、近年発掘調査が行われた新潟県の城の山古墳では、墳丘を構築する技術に、遠く離れた東海地方の技術が用いられていたことが明らかとなりました(青木2016)。当時、遠く離れた地に技術を伝えるには人を介して行うしか方法は無いと思われ、交流のある地域や有力者を通じて、技術者や指揮者が派遣された可能性が考えられます。
 そうして派遣された人々は、しばらくの間異郷の地で暮らすことになります。その際少しでも快適に暮らせるように、故地のすまいや土器をつくって使用した可能性は十分に考えられるかと考えられます。
 現時点では上記のどちらが正しいかを決定できる証拠はありません。「喪屋」であった場合、古墳の被葬者とその家族は地域社会のなかでも非常に異質なルーツの人々である可能性が浮かび上がってきます。つまり社会のリーダー自体が「ヨソモノ」なのです。一方で古墳築造に関わる人のすまいと考えると、福島から遠く離れた地域の集団とも交流していた可能性が想定され、社会のリーダーはそうしたなかで「ヨソモノ」を招き入れ、社会活動の一翼を担わせていたのかもしれません。
 今回取り上げた2つの一軒家に共通する点として、付近に大規模な集落遺跡が存在している点が注目されます。仲ノ平古墳群の付近に位置する高木遺跡は、東北地方のなかでは珍しく、甕形土器や炉の構造が多様な事から、様々な地域にルーツをもつ人々によって営まれた集落であると私は考えています(神林2019)
 本屋敷古墳群周辺でも鹿屋敷遺跡や北中谷地遺跡といった大規模な集落跡が確認されています。このうち一昨年調査された北中谷地遺跡では、千葉~茨城県にみられる土製支脚や炉器台を設置した炉や、房総半島を除く南関東にみられる石添炉など、多様な構造の炉が確認されています(浪江町教育委員会2020)。高木遺跡同様に複数の地域にルーツを持つ人々が居住していたと考える事のできる遺跡と考えられます。
 このように、これらの地域では自分と異なるルーツを持つ人々が日常的に顔を合わせて生活している事が考えられ、「ヨソモノ」を受け入れることに大きな抵抗の無い雰囲気の社会だったのかもしれません。

おわりに

 古墳時代に限らず、昔の人々の生活拠点である竪穴住居跡や集落遺跡は膨大な数が調査されています。なかには十分に検討されないまま埋もれてしまっている情報がまだまだたくさんあると思われます。今後もコツコツと検討を続け埋もれた情報を引き出したいと思います。

引用・参考文献

青木 敬2016「第8節 墳丘構造」『新潟県胎内市城の山古墳発掘調査報告書』胎内市埋蔵文化財調査報告書第26

阿部朝衛・伊藤玄三1993「本屋敷古墳群の再検討」『磐越地方における古墳文化形成過程の研究』

神林幸太朗2019「古墳時代の東北における炉の様相」『福島考古』第61

久世辰男1997「長老の出入口−弥生住居に付属する尾状溝をめぐって」『利根川』第18

群馬県埋蔵文化財調査事業団1995「中高瀬観音山遺跡」群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調査報告第194

小山岳夫2017「弥生時代の炉 再々考」『長野県考古学会誌』第155号 長野県考古学会

佐久市教育委員会2001『川原端遺跡』佐久市埋蔵文化財調査報告書 第89

佐久市教育委員会2001『西一本柳遺跡群Ⅴ・Ⅵ 中長塚遺跡Ⅰ・Ⅱ 松の木遺跡Ⅰ・Ⅱ』佐久市埋蔵文化財調査報告書第91

須賀川市教育委員会1987『仲ノ平古墳群 昭和61年度発掘調査概報』

浪江町教育委員会2020『北中谷地遺跡』浪江町埋蔵文化財調査報告書第22

法政大学1985『本屋敷古墳群の研究』

水澤丈志2015「喪屋としての竪穴建物」『季刊考古学』第131

柳沼賢治2012「古墳時代前期の交流と地域間関係」『福島考古』第54