調査研究コラム

#077 海道国衆の「技巧」と「不屈」 富岡町毛萱館跡(けがやたてあと) 佐藤 俊

1.はじめに

 毛萱館跡は県道広野小高線(毛萱工区)の建設に先立ち、平成29・30年度に10,000㎡の発掘調査が行われた。平成29年4月、避難指示が解除されたばかりの富岡町毛萱地区で現地を確認したときは、草木の繁茂著しく、「ここが本当に中世のお城なのかなぁ?」、「かなりの急傾斜で、重機や作業員さんはどこから安全に現場に入れるのかなぁ?」と不安と?マークだらけの船出であった。しかし、公益財団法人岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センターから出向で来られた杉沢昭太郎さんをはじめ、富岡町教育委員会の三瓶秀文さんや臨時職員や現地の作業員の方々、発掘調査の支援業務に従事してくれた委託業者の方々、県道工事を受注した土木会社の方々など、数えきれない人々の尽力のおかげで、令和2年2月28日にその成果を収めた発掘調査報告書を刊行することができた。しかし、発掘調査報告書は一般の書店には並ばず、各地域の図書館や埋蔵文化財センターに所蔵されるため、一般の方々が手に取り、かつ読みこなすにはなかなか敷居が高いのが正直なところである。本コラムでは刊行された発掘調査報告書をもとに、毛萱館跡の調査成果をわかりやすくまとめてみたい。

2.遺跡の概要

 毛萱館跡は、紅葉川(もみじがわ)の南岸に隣接する丘陵部に立地する。遺跡の北西側は、紅葉川で開析された急峻な崖となる。遺跡の南東側の一部は、東京電力福島第二原子力発電所造成により削平されている。本遺跡の同一丘陵上には、弥生時代中期後半の集落跡で、土偶が出土したことでも有名な毛萱遺跡が隣接している。 地元の方々は毛萱館跡の所在する丘陵を「タテノヤマ」と呼び習わしており、城館として周知されている。しかし、中世の文書や近世の地誌等に記載は認められず、築城者、年代、造られた理由などが全く不明の言わば「無銘の城」であった。発掘調査の結果、弥生時代中期後半の竪穴住居跡11軒や、中世の土塁・堀跡、平場などが確認された。遺物では弥生時代の壺形土器や甕形土器の小片、石斧やノミなのどの石器、中世の陶磁器が出土している。陶磁器の年代は、瀬戸窯産の平椀や口広有耳壺の特徴から、15世紀前半~中葉頃の室町時代に限定される。
毛萱館跡の中世城館に伴う遺構は、平場7箇所、土塁5条、堀跡3条、掘立柱建物跡9棟、門跡1基、柵跡7列、道跡2条、小穴652基が発見されている。多数の掘立柱建物跡や出土した遺物などの特徴から、日常的な生活の場が城館内にある「居館型山城」と考えられる。

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図1富岡町毛萱館跡の城館関連遺構

3.地形・地質を巧みに利用した城館構造
 毛萱館跡の城郭構造は丘陵を2号土塁と2号堀跡によって分断し、その内側を本格的な城域とするもので、双葉郡では富岡町日向館跡、楢葉町小塙城跡、浪江町権現堂城跡などに類例が伺える。このような双葉郡に共通する城館構造は、浜通り地方太平洋沿岸地域に特徴的な低丘陵地の城館利用に沿ったものと考えられる。

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図2縄張り図

 外郭と推測される1・2号平場からは、簡易的な建物跡(2×1間)や柵跡がみつかっている。主郭と推測される5号平場は平場縁辺を主に整地が行われ、その上に複数の土塁や門跡を築き、桁行4間以上、梁行2間以上の掘立柱建物跡も複数認められる。5号平場の東端部からは、旧毛萱村の集落や旧波倉村に至る街道、紅葉川、太平洋が一望できることから、毛萱村周辺を支配した村落領主の居館と考えられる。
主郭に準じる4号平場では、土層を確認したところ全体が30㎝程掘り下げられていることがわかった。これは、主郭である5号平場との高低差を設けることにより防御性を高め、整地や土塁を築くための土砂を確保するための工夫と考えられる。毛萱館跡の立地する丘陵頂部付近に堆積している土は軟質で掘りやすく、①堀を掘る、②土塁を積む、③平場を整地するなどの城づくりに適しているようである。こういった城を築く上で重要な「土木コスト」を築城に関わった人物は意識していたのかも知れない。
また、2号堀跡は粘土の岩盤を底面にしており、水気を含むと非常に滑りやすい。私も発掘調査時は2号堀跡の底で何度か滑ってヒヤリとした記憶がある。もし、粘土の岩盤を底面にすることで敵が堀底を道として利用するのを阻止しているのだとしたら、普請に関わった人物は地域の地質をかなり理解していると言えよう。

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図3 2号土塁・2号堀跡の大きさ

 次に毛萱館跡の防御プランについて考えてみたい。①北西側は紅葉川を天然の堀とし、比高差30ⅿの垂直に反り立つ断崖により敵の侵攻を防いでいる。②南西側から丘陵頂部を伝って侵攻してくる敵に対しては、2号土塁・堀跡により防御し、遠隔から攻撃を行う。2号土塁・堀跡は丘陵を分断するように築かれ、最大幅10m、最大深さ5mと、毛萱館跡の防御施設の中で最も労力をかけており、本城館における防御の基幹と言えよう。③東側から尾根伝いに侵攻してくる敵に対しては丘陵の先端部を堀と切岸により防御を行う。④北東側から経路1の大手口を通って侵攻する敵に対しては、4~8号平場から射線を交差させるように攻撃を行う。このように毛萱館跡は各方向からの攻撃に際して、一定の防御性を担保していることが伺える。

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図4防御プラン

4.「不屈」の門跡

 5号平場東端に位置する1号門跡は、3回の建て替えを行っており、古い順から掘立柱の①二脚門、②四脚門、③六脚門(櫓門か)、④礎石建ちの二脚門の順で変遷する。15世紀代の城館の門跡が掘立柱から礎石へ変遷する過程が伺える好資料である。75年に満たない時期幅で3回の建て替えを行う門跡の存在は異質と言え、5号平場の東端に門を築くことに対し、とても執着していることが伺える。その理由として5号平場の東端は登城ルートや、旧毛萱村を見下ろせる位置にあることから、支配の象徴としての意味合いが強いことが理由なのかもしれない。また、丘陵端部であることから、斜面の崩落が起きやすいことから門を建て替えていた可能性がある。実際に発掘調査でも門跡の柱穴は斜面に極めて近く、崩れやすく調査に苦慮した。毛萱館跡の1号門跡からは、何度崩れてもその構造を替えて再建させる、城主の「不屈」さが伺えると言えよう。

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図5富岡町毛化館跡1号門の変遷

5.さいごに

 毛萱館跡が機能していた15世紀前半は、室町幕府と鎌倉府の対立により地域でも軍事的な緊張が強まった時期である。こういったことが、毛萱館跡の例に伺えるように海道国衆が防御性の高い居館を丘陵上に築く契機になり、築城技術も先鋭化していったのかも知れない。また、毛萱館跡は15世紀中頃には城館としての機能を停止するようで、これは文明六年(1474)におこった岩城氏方の猪狩氏による楢葉氏の滅亡とほぼ同時期である。このことから地域における支配体制の変容に伴い、毛萱館跡の城館としての機能が停止した可能性が考えられる。毛萱館跡に近接する真壁城跡の年代は、出土遺物から14世紀から16世紀代と考えられ、当該地区周辺における地域支配の場が、毛萱館跡から真壁城跡へ集約された可能性がある。
 当初は詳細不明の「無銘の城」であった毛萱館跡だが、二か年、10,000㎡に及ぶ発掘調査の結果、地形や地質を巧みに利用した城の「技巧」と、構造を替えながらも同じ位置に3回も建て替えを行った門跡に城主の「不屈」さがみてとれた。
浜通り地域の双葉郡における中世遺跡の発掘調査例は意外と少なく、不明な点が多い。今回の毛萱館跡の調査成果が、地域の中世史を語るうえでの一端、もしくは一般の方々が地域史に触れるきっかけになれば調査者として幸いに思う。