福島県史料情報

福島県史料情報 第33号

『水産旧慣調』と鮫川の鮭漁

33-1s.jpg

鮭ヲ捕漁スル図(『水産旧慣調』、明治・大正期の福島県庁文書3017号)

 明治・大正期の福島県庁文書のなかに『水産旧慣調』(F三〇一七)という表題の簿冊があり、この公文書は明治十二年(一八七九)に福島県農務掛が作成したものである。同年六月三十日に内務省勧農局長代理の書記官橋本正人から福島県令山吉盛典に対して、丙第三百五拾五号で水産保護に関する布達が出された。これをうけて福島県勧業課では、七月に磐城・磐前・菊多、楢葉・標葉、行方・宇多などの各郡役所へ村ごとに漁業の習慣や現況について調査するよう依頼したのである。その調査項目は、水産物の種類・漁具・漁場の名称・漁の季節・製法(加工法)・明治十一年の漁獲高・漁業税の沿革などであった。この調査結果は、同年十二月十九日に福島県より内務省勧農局へ進達されている。
 上図は、菊多郡佐糠村(いわき市佐糠町)における鮫川での鮭漁の図である。これは船を使った地引き網の一種である「曳き廻し」という漁法で、河口付近で昼間の漁に用いられるものである。この漁法は、鮭が川を遡上する前に河口付近で滞留する習性を利用したものであった。実際に佐糠村も鮫川の河口に位置し、この漁は八月から十月にかけて行われていた。漁場は、佐糠村字渋川口から岩間村字蛇穴(いわき市岩間町)までの間であった。明治十一年の佐糠村での鮫川における鮭の漁獲高は三百本ほどであったという。また、江戸期の泉藩では、十一月に鮭三十六尺を幕府へ献上するのが慣例であった。
 なお、南会津郡宮沢村(現南会津町)出身にして農商務省技手であった河原田盛美らが著した『日本水産製品誌』によると、泉藩では塩漬けした鮭を桶詰めにし、寒中に幕府へ献上するのがしきたりであったという。また、その漁区は佐糠の鮫川で、漁期は秋の彼岸後であると記している。

(渡邉智裕)

福島城下の絵図

33-2-1s.jpg

『奥州道中絵図』

 福島市の柳町そして荒町から中町にかけての通りには昔ながらの老舗が残り、西側の西裡通りに沿っては寺院が並んでいる。この風景は近世の町並の名残であり、往事の界隈を描いた絵図について、あらためて当館に収蔵されている史料を探したところ、『歴史資料館収蔵資料目録』第二集(昭和四十八年)掲載の木目沢伝重郎家文書の中に『奥州道中絵図』を見出すことができた。絵図は描かれた年代が不詳であるが、近世後期頃における福島から仙台にかけての奥州街道の最初に福島城下の町並が描かれている。
 福島城下への南側入り口は江戸口と言われているが、絵図では枡形となっている様子が描かれている。枡形は石積で上に低木が植栽された虎口状の土手となっている。手前にはスカワ(須川)を渡る橋、そして奥州街道ならびに大森から土湯に至る道が記されている。奥州街道は現在の柳町と荒町で鍵形に屈曲し、本町で東に折れ、杉妻町から大町にかけて鍵形に曲がり北町と上町の間を通り舟場町で北に折れ、豊田町のあたりで仙台口に至る。仙台口には木戸が描かれている。
 絵図は街道を軸に町屋敷が詳しく描かれている反面、福島城は詳しくない。二の丸の濠と白壁、西門と大手門、馬場丁木戸、本丸の土塁、そして隈畔の木立が描かれているのみである。柳町から本町にかけての街道から西に離れた現在の西裡通りに沿って常徳寺や常光寺・真浄院・誓願寺・康善寺などの寺院が並んでいてそれぞれに境内林まで描かれているが、その寺院の並びがかつての寺町であろう。寺院は街道が舟場町で北に折れた所の東にも長楽寺と宝釈寺が描かれている。
 絵図は巻物になっており、右が南で左が北に描かれている。阿武隈川を挟んで福島城下の対岸には亘村(渡利村)と椿舘が記されている。

(山内幹夫)

御仕法と山中郷

33-2-2-1s.jpg

万延元年『御主法願』

33-2-2-2s.jpg

「二宮先生御良法」の文言

 万延元年(一八六〇)に、山中郷(同藩の行政区の一つ、現飯舘村及び相馬市・浪江町・葛尾村の一部)の飯樋村が御仕法実施を嘆願した『御主法願』の中に、同法に関する記述がある。御仕法発業となった村について、「昼夜出精抽諸村年々取実相増、出精人御褒美被下、困窮人御恵米被下、本家・馬屋・便所等迄新規御普請、或ハ屋根替其外荒地起返し等、万端厚く御世話被成下候御次第」と述べ、村民は昼夜勤勉に働き、模範となる者には褒美が与えられ、さらには家屋等が造り与えられることもあったという。
 一方で、御仕法発業となるには、村側にも一村挙げての意識高揚が求められた。本書の中でも、飯樋村が、農作業の合間に縄ないを行って貯蓄した金四〇両をとりあげて、自村の勤労意欲の高さを主張し、発業に選定されることを熱望している。
 ちなみに、四年前の安政三年(一八五六)には、同じく山中郷の草野村が御仕法発業となっている。城下から離れた山あいの山中郷でも、御仕法発業を望む熱気と意識改革の気運が高まっていたのである。
 収蔵資料展『飯舘村の歴史と風土(仮称)』(九月~)では、本書も含め、飯舘村の歩みを今に伝える郷土資料を展示する。是非足を運んでいただきたい。

(小野孝太郎)

白水阿弥陀堂の仏像修理と岡倉天心

33-3s.jpg

請負請書と修繕設計書 (部分、福島県神社庁文書第143号)

 明治三十五年(一九〇二)七月三十一日、古社寺保存法により白水阿弥陀堂(いわき市内郷白水町、現国宝)は特別保護建造物の指定を受けたが、廃仏毀釈の影響で荒廃しており、翌年一月八日の暴風のため倒壊してしまったのである。この時の阿弥陀堂や仏像の修理実態を明らかにできる公文書が当館に二冊保管されている。今回は、『社寺明細帳加除訂正その他』(福島県神社庁文書一四三号)に編綴されている『白水阿弥陀堂国宝修理関係書類』から現在国指定重要文化財となっている平安時代末期頃作の木造阿弥陀如来及両脇侍像や木造持国天立像・多聞天立像の修復について述べてみたい。
 経年劣化や阿弥陀堂の倒潰にともない、本尊木造阿弥陀如来坐像・脇侍の観音菩薩立像・同勢至菩薩立像も割れ・破損・欠損・剥落などが生ずるにいたったのである。三躯の仏像は、古社寺保存法によりこの年四月十五日に国宝に指定されている。
 明治三十七年二月十八日、福島県は日本美術院への仏像修理委託を国より認められ、また国からの補助金八百三十九円七銭九厘が決定されたのである。上図は、同年五月十五日に日本美術院から福島県知事有田義資へ提出された阿弥陀堂国宝修理請負請書で、請負請書と修繕設計書からなっている。岡倉覚三とは日本美術院を主宰した岡倉天心のことで、洋行中とは、天心がこの年よりアメリカのボストン美術館に滞在していたことを指している。そのため日本美術院では、辰澤延次郎の指揮監督の下、劔持忠四郎を工事主任に、高瀬典曠を会計主任に、実際の仏像修復には現地で松原象雲・山本瑞雲が当たることにしたのである。
 仏像の修理請負金額は九百三十二円三十一銭であった。日本美術院では、五月二十一日より修繕に着手し、その手法は現在の文化財修復の基本である可逆的な修理法が採られた。七月十一日に完成し、十四日には石城郡へ引継ぎしている。

(渡邉智裕)

災害の記憶を風化させない

 東日本大震災の発生から一年三ヶ月が経過した。二万人近い方の生命が奪われたこの災害に接し、私達は、自然の驚異の前で、いかに文明が無力であるかを知った。
 地震の衝撃は、防潮堤の水門に歪みを生じさせ、さらにはその高さを上回る津波が押し寄せるなどして、一瞬のうちに尊い人命が失われてしまった。
 さらには、この地震・津波が引き金となって、「安全」を謳っていた原子力発電所に事故が発生した。これにより、人間の手で制御しきれないものを「安全」と呼んでいた事実が認識されるに至った。
 この震災では、「想定外」という言葉が多用されているが、歴史に学ばない施策により、最悪のシナリオが想定できなかっただけのことであろう。十年以上も前から地震学者が警告していた原発震災の危険性についても、「定説ではなかった」とする主張がある。国際競争を勝ち抜く国策のもと、経済のためには可能性の低いリスクに目をつぶるという暗黙の慣習があったのは否めない。
 災害は、人間の手で防ぎきれるものではない。人間は、災害が起こった場合の被害を最小限にとどめるように叡智を結集すべきであった。過去の史実と現在進行形の事実を集成し、「教訓」として活用する施策が求められるであろう。
 今回の大津波では、高台にある縄文時代の貝塚の多くが津波被害を免れた。これを「縄文人の知恵」と見る向きもあるが、最近の研究で、縄文後期加曽利B3式期の遺跡が、三陸沿岸部において皆無であることが判明している。これは、この時期の津波によって消失したものと思われ、大量の流木とともに出土した新地町双子遺跡の縄文後期中頃の丸木舟も、このときの津波で打ち上げられたものと想定されている(相原淳一「縄文・弥生時代における津波と社会・文化変動」『日本考古学協会第七八回総会研究発表要旨』二〇一二)。縄文後期後半以降、新地町の縄文人は高台移転を進め、新地貝塚・三貫地貝塚を残している。この二つの貝塚は、今回の津波被害を被っていない。同様に、ほぼ同年代の岩手県大船渡市大洞貝塚・下船渡貝塚なども冠水を免れている。
 しかし、人間の記憶は風化するものである。七二一年(養老五年)に成立した「常陸国風土記」では、手の長い巨人が貝を食べて捨てた場所として水戸市大串貝塚を記録している。これと同じ伝承が、新地町の手長明神社にも伝えられている。海から数キロメートルも離れたところに貝殻が捨てられている意味を、奈良時代以降の人間は理解できなかったのである(※1)
 「常陸国風土記」の約一四〇年後、貞観地震にともなう大津波が東日本沿岸部を襲った。その浸水エリアは、東日本大震災の浸水エリアとほぼ合致するが、旧街道沿いの町の多くは、今回も津波の冠水を受けなかったことが判明している。つまり、少なくとも中世以降における道・町・寺社の配置は、貞観地震を経た復興施策を反映したものと考えられるのである(平川新二〇一一「東北・関東大震災 津波浸水域図を見て」宮城史料ネットニュース九八号)。
 福島県は、東日本大震災の事実を記録し、その教訓を次世代に伝えるため、「東日本大震災等記録保存活用事業」を開始した。この事業の遂行を委託された福島県文化振興事業団は、福島県歴史資料館を窓口として情報収集を進めている。カメラの前で体験証言をしてくださる方を募集するほか、写真、動画、手記、文集、避難所での配布資料や貼り紙、避難者どうしの連絡紙など、東日本大震災に関係する資料の提供も求めている。災害の事実だけでなく、福島再生に向けた過程の記録も重要である。ぜひ多くの方々のご協力をお願いしたい。
※1 水戸市大串貝塚は、縄文前期を主とする貝塚であるため、津波ではなく縄文海進にともなう立地であると考えられています。ここには第33号の原文をそのまま掲載しましたが、誤解を招く記載をした事を深くお詫び申し上げます。(本間 宏)

(本間 宏)

福島県歴史資料館の予定等について

(一)工事による休館について
 福島県歴史資料館は、東日本大震災に伴う災害復旧工事及び耐震改修工事のため、臨時休館しております。再開館については、本年九月二十九日を予定しています。
 工事中は、歴史資料館の敷地内への立ち入りが禁止となっております。当分の間、古文書・公文書等をご利用いただけませんが、ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
 なお、緊急的に地籍図・地籍帳・丈量帳の閲覧を必要とする場合には、お電話でご相談ください。
(二)仮事務所の設置について
 県文化センター(文化会館・歴史資料館)敷地の西側砂利敷駐車場内に、福島県歴史資料館の仮事務所を設置しています。
 郵便物のあて先や、電話番号につきましては従来どおり(左下参照)です。
 なお、従来は一方通行だった祓川沿いの道路が、本年四月二十七日から対面通行となりました。これにともない中央分離帯が設置されましたので、東側から北側への右折はできません。仮事務所にお車でお越しになる場合はご注意願います。

33-4s.jpg

(三)平成二十四年度の行事
 本年度の行事は、震災復旧・耐震工事が完了する秋以降に、以下のとおり実施する予定です。
【収蔵資料展】
① 飯舘村の歴史と風土(仮称)
 飯舘村は、東日本大震災にともなう原子力災害によって全村が避難対象となりました。このため、現地で管理できなくなった歴史資料が、現在福島県歴史資料館に寄託されています。秋の再開館から十二月中旬頃まで、これらの資料を展示させていただく予定です。また、関連イベントの実施についても検討中です。
②新公開史料展
 昨年度末に刊行した『福島県歴史資料館収蔵資料目録』第四十三集に採録した「国見町小坂区有文書」を中心に、主な資料をピックアップして展示します。会期は来年一月中旬以降を予定しています。
【古文書講座】
 昨年度までは、二時間の講座を四回にわたって実施していましたが、今年度は、初心者を対象に午前・午後を各二時間として、二日間で実施する予定です。会場は福島県文化センターで、十月の開催を予定しています。詳細が決まりましたらホームページにてお知らせいたします。
【フィルム上映会】
 十月から十二月にかけて、各月一回ずつ、計三回の上映を予定しています。今年度は、日本の伝統文化に関するもの以外に、子どもが楽しめる歴史アニメや、古代技術の体験に関する映像も上映する予定です。事前申し込みは不要で、入場料は無料です。日程等については、詳細が決まり次第ホームページにてお知らせいたします。
【地域史研究講習会】
 新たな視点に基づく地域史研究の事例や、歴史資料の保存と活用に関する地域課題を考える講習会です。日程・会場等は未定です。