福島県史料情報

福島県史料情報 第25号

檜枝岐村絵図について2

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「檜枝岐村絵図」(享和4年 部分)

 今回は享和4年(1804)の村絵図を紹介する。同年は、第5代会津藩主・松平容頌の時代であった。
 絵図は基本的に墨描であるが、檜枝岐村を通り、三平峠を越えて戸倉村(群馬県利根郡片品村大字戸倉)に至る、沼田街道のみ朱筆されている。
 絵図は、只見川と実川の2河川を軸に描かれ、前回紹介した萬治4年(1661)の村絵図と比較すると、山名や主河川に流下する沢の名前がかなり具体的に記されている。
 この時代の檜枝岐村は南山御蔵入として幕府直轄領であった。村絵図において山名と沢名が詳細に記されているのは、林業・狩猟・河川漁業などの生業と直結していたからではないかと推測される。さらに「銀山」と記されている箇所があるが、それは白峯銀山の位置と考えられる。
 村絵図に記されている山名では、志佛(至仏山2,228m)・燧山(燧ケ岳2,356m)・黒岩(黒岩山2,163m)・駒嶽(駒ケ岳2,133m)・八かい山(八海山1,778m)が記されているが、八海山の記載がなされていることは注目に値する。沢の名前では、実川支流として上滝沢・七入沢、只見川左岸支流として松倉沢・大白沢・原ノ小白沢(小白沢)・小湯ノ俣(恋の俣)・中ノ又・北ノ又、右岸支流として志ぶ沢(シボ沢)・高石沢・とくさ沢・長沢・赤石沢・片貝沢などの名が現在まで残っている。
 尾瀬周辺では、尾瀬沼・沼しり(沼尻)川・三丈の瀧(三条ノ滝)が記されており、尾瀬平とあるのは現在の尾瀬ケ原であろう。大江沢は現在の大江湿原の場所と推定される。この時代になると、檜枝岐村周辺の山地や尾瀬沼一帯は、詳細に知られ、歩かれていたことであろう。

(山内幹夫)

松川と『定勝公御年譜』

 福島では慶長5年(1600)の上杉景勝方と伊達政宗方の戦いを語るとき、いわゆる「松川合戦」は松川の流路の問題ともあいまって広く関心がもたれている。この合戦は、「伊達家文書」にいう10月6日になされた「宮代表御合戦」「宮代に而合戦」と一連の戦闘とみなされる。
 しかし、この文書でも松川が福島と鎌田古城の間を流れていたことは明示されているものの、その流路が信夫山の南側なのか、北側なのかは判然とはしないのである。両説ともに結論を急ぐあまり学問的な検討が充分になされておらず、筆者の立場は今のところどちらの説にも与していない。むしろ今求められているのは、既知の史料を現在の研究水準から深く再検討することや確かな史料を新たに探索することであろう。
 ここでは、松川南流説根拠のひとつとなっていた松川改修に関するいくつかの史料を再検討してみたい。
 米沢藩で江戸時代中期に編纂された『定勝公御年譜』寛永17年(1640)8月6日条(史料A)では「去月16日、今般米府城東松川ノ川除普請、諸士ニ命ラル」とあり、これは米沢城の東を流れる松川の川除(堤防)構築を米沢藩士たちに命じたと容易に解釈できる。したがって、この松川は最上川上流の歴史的呼称であり、現在信夫山の北側を流れている松川を指すものではない。
 ところで、『定勝公御年譜』に出てくる「米府」という用語を子細に検討してみると、「江府(江戸)」や「福嶋」と対で用いられていることが多く、史料の編纂者は「米府」を米沢藩という意味ではなく、米沢という狭い地域の呼称として使用していることが理解されるのである。
 また、米沢藩の奉行人層による合議記録である『寄合帳』寛永17年7月18日条には来次朝秀の所で合議された「松川御普請」がみえ、米沢藩の法令集である『御代々御式目』同年7月25日条に「米府松川之川除御普請」とあるが、どちらも史料Aと密接に関連するもので、米沢の松川を指すものと断定できる。
 さらに、『定勝公御年譜』寛永17年8月11日・同28日条などの松川改修記事も明らかに史料Aの関連史料である。このほかにも、『定勝公御年譜』寛永8年5月23日・同18年8月1日・同8日・正保2年(1645)7月3日・同23日条の「松川」も前述と同様に米沢の松川を指すもので、『定勝公御年譜』には福島の松川と明確に解釈できる箇所は今のところ全く存在しないのである。

(渡邉智裕)

塙の鍛治3

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「青砥和夫家文書408」

 江戸時代の塙町周辺では主に鍬型(鍬の原型)を製造していたが、それは「会津向」「那須向」というようにその地域に適した形に作られていた。地域ごとの耕作方法、栽培方法、栽培品目、生産力などに配慮していた様子がうかがえる。その販路は石川、磐城、白河、長沼、須賀川、会津、田島などの周辺地域をはじめ、常陸、下総、上総、下野、伊豆などに及ぶ広範囲なもので各地の鍛冶屋はこの鍬型をもとに完成品の鍬に仕上げて販売していた。写真の青砥和夫家文書408「仲間相定證文之事」は安永9年(1780)に鍛冶屋仲間で相談して取り決めた事を記した文書で、「鹿島向」「伊豆向」「江戸崎向」「府中向」「笠間向」「土浦向」「水戸向」「結城向」「会津向」「須賀川向」などとあり、安永年間には下野、常陸方面にも鍬型を販売していたことがわかる。また、「那須、白川之儀者北野村ニ而取究」とあることから、塙の北野村の鍛冶業者は、白河・那須方面にまで出向いていたことがわかる。前田、川下、北野の3村での鍬型製造量は不明であるが、「正徳二年四月三ヶ村鍬鍛冶相続願」(塙町史2)によると「一 鍬貫目之儀、壱駄三拾貫目ニ打立申候而、会津御城下江百六七拾駄宛売来申候」「一 武州行田町弥治右衛門と申者北野村惣兵衛所ニ而、七拾駄宛買申候」とあり、相当な量に達していたものと推測される。この3村に対して棚倉藩主の内藤弌信は炉役銭(税金)を徴収した。
 近藤良平家文書368「乍恐以書附奉申上候」(第19号掲載)は、明治2年(1869)に北野、川下、前田各村の名主が連名により東郷御役所へ鍛冶業者の新規参入を差し止めるように願い出た文書である。明治期になると既存の鍛冶業者が結束を強め、専業化していた様子がうかがえる。棚倉藩領3村の鍬鍛冶は「棚倉鍬」の銘柄で明治時代の中頃まで続けられた。

(小暮伸之)

「功アル」鳥・獣

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「有功鳥の『夜鷹』」

 明治16年に、福島県の勧業課が各郡役所に報告させた『有功有害鳥獣調』(F3101)という簿冊が当館に収蔵されています。この資料については、おもに熊の記載についてすでに紹介されている(渡邉智裕:福島県史料情報第17号)ところです。熊の他にも、希少種を含め、多くの鳥と動物の名前が掲載されています。また、当時どのような価値観のもとに動物が扱われていたのかを、窺い知ることができます。今回は、「有功鳥獣」についてご紹介します。
 「功アリ」と判断される基準は、2つあります。①田畑を荒らす虫やネズミなどの小動物を捕食して、農業や漁業の役に立つこと、あるいは②食べておいしい、またはその皮や角が何かの材料になることの2点です。「有功鳥」として頻出するのは、「鷹」、「鳶」、「梟(フクロウ)」などの猛禽類、「燕」、「百舌鳥(モズ)」、「鶉(ウズラ)」、「蝙蝠(コウモリ)」などです。これらの鳥が有功鳥とされたのは、いずれも①の理由によるものです。珍しいところでは「夜鷹(ヨタカ)」が挙げられています。夜行性のヨタカは、「夜間耕地ニ出テ田圃ノ鼡(ネズミ)ヲ逐食ス此鳥ナカリセハ田鼡ヲ驅ル能ス其功亦大ナリ」と評価されています。また「海鳧・鴎(カモメ)」は、魚群をみつけて群れることで、漁師が網を入れる目印になる「効能」ありとされています。磐城郡の報告には「此鳥ノ海上ニ棲息スル勿ンハ恰モ漁夫ノ眼目ヲ失スルカ如シ」とあり、「地方ノ慣習」の項には「愛育シ捕獲殺傷スルハナシ」と記されています。
 有功獣として挙げられているのは、「鹿」、17号で紹介された「熊」、そして現在、国の特別天然記念物に指定されている「鈴羊・羚(カモシカ)」などです。これらの動物は、②の理由により有功獣とされています。カモシカも、当時は美味しくいただいていたわけです。カモシカを挙げているのは大沼・南会津・東蒲原の3郡に止まります。南会津郡では「年ニ弐百余頭ヲ捕」えたとある一方、大沼・東蒲原郡では数が少ないと報告されています。

(今野 徹)

高瀬の大木(ケヤキ)と『大樹銘木調査書』

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「大樹銘木調査書」(福島県庁文書F3233号)

 当館には明治45年(1912)に福島県内務部林務課によって作成された『大樹銘木調査書』(福島県庁文書F3233号)という一風変わった永久保存の公文書が保管されている。この簿冊は当時の福島県が実施した「緑の文化財」調査の報告書ともいうべき性格のもので、同じく林務課作成にかかる『製炭傳習関係』の後に編綴されている(右写真)。
 この公文書が作成された契機は、明治45年1月27日付で東京帝国大学農科大学教授(林学博士)本多静六から福島県内務部林務課長(技師)堀田英治宛に問い合わせの手紙が届いたからであった。本多は当時の日本造林学界の権威で、また堀田は林業現場に精通した福島県林務行政の先駆者(後に山林課長)であった。手紙の内容は、本多自身が造林学の著書を出版するにあたり、全国の老樹・大木・銘木の調査結果を掲載すべく、これに関する福島県のデータを調査基準に沿って教えて欲しいというものであった。調査項目は、①老樹・大木・銘木の地元での呼称、②詳細な所在地、③地上5尺での周囲、④おおよその樹高、⑤おおよその樹齢、⑥古老木に関する伝説・記録の概要の6つである。
 早速、福島県は県下の市役所・郡役所に調査を指示し、3月11日には135本の老樹・大木・銘木のデータを集積するにいたったのである。
 会津若松市神指町大字高瀬字五百地の神指城二の丸土塁上には、昭和16年(1941)1月27日に国指定天然記念物となった「高瀬の大木(ケヤキ)」(緑の文化財登録第6号)があり、これは『大樹銘木調査書』にも載せられている。
 明治45年2月24日、高瀬の大木に関する調査項目は北会津郡役所から福島県へ報告されている。ケヤキの大樹で、通称は「大木」、当時の所在地番は北会津郡神指村大字高瀬字五百地の共有原野であった。また、樹木のデータは、幹周りは4丈6尺、樹高は約9丈、樹齢は約1000年余としている。この樹木は、源義家の安倍氏征討、源義経や金売吉次の奥州下り、直江兼続による神指城築城の故事など様々な伝説に彩られ、神木として地域住民から厚く崇敬されてきたのである。

 (渡邉智裕)

地域史研究会活動情報『清水地区郷土史研究会』

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写真は「直江兼続像」(与板歴史民俗資料館前)

 清水地区郷土史研究会(福島市)は、昭和50年に清水公民館で行われた成人教育講座の受講者17名を中心に「郷土史探訪」の名称で発足しました。それ以来、地区内の史跡巡り等、歴史に関する研修を重ねて今日に至ります。現在は清水地区(市内北沢又・南沢又・泉・森合・笹谷・御山)在住の方を中心に123名の会員で研鑽を重ね、清水地区文化祭に参加する等、地域の中核団体として活躍しています。
 平成21年度は、総会でNHK大河ドラマ「天地人」に登場する直江兼続を研修テーマに選びました。
 6月16・17日に行われた研修旅行には46名の会員が参加しました。最初に長岡市の「与板歴史民俗資料館」を訪れて直江兼続とお船の愛を育んだ史跡に関する展示を見ました。ここでは兼続が与板時代に培い、生涯貫いた地域民への精神を学びました。また、「米百俵群像」も見学し、戊辰戦争後の生活難よりも学問・教育を優先し、未来ある若者に活力を与えた小林虎三郎の決断に敬服しました。次は上越市に移動し、上杉謙信の居城・春日山城と林泉寺に眠る謙信の墓所等を見学しました。戦国武将が神仏を信仰し、周辺に対峙する戦国大名を味方につけるための戦略を巡らしていたことに触れ、歴史の一端を垣間見ることができました。また、上杉謙信の後継を巡る景虎と景勝の熾烈な争いが行われた「御館跡」を見学しました。新潟県では、官民を問わず「天地人」で盛り上がり、経済効果を上げようと努力している姿が印象的でした。
 夏季研修は8月28日に実施しました。福島県歴史資料館の本間宏氏を招いて「慶長五年 直江兼続の戦略」と題した講座を開催しました。文化人としての兼続の実像、「直江状」の内容と問題点、神指城の築城目的、多方面との政治工作、伊達・最上との戦いの真意などに関する解説がありました。
 今後は10月初旬に会津の歴史と直江兼続が築城した「神指城」に関する研修、年末に反省会、来年2月に冬季研修会、年度末に機関誌「しみず」の刊行を行う予定です。

(会長 須田鐵二)