福島県史料情報

福島県史料情報 第12号

長谷部家文書

3月8日に福島県文化財保護審議会は、当館に寄託されている南会津郡只見町叶津の長谷部大作家文書(指定名称は長谷部家文書)一括を、福島県重要文化財に指定するよう福島県教育委員会に対して答申した。それをうけ、4月15日に同文書は同教委によって正式に指定された。
同文書群は南山御蔵入領会津郡黒谷組叶津村名主および叶津口留番所役人であった長谷部家に伝来した寛永15年(1638)から明治41年(1908)までの古文書である。この文書の特色は、八十里越・鉱山・戊辰戦争などに関する近世史料が多く含まれるという点である。また、近代では長谷部家は叶津村戸長や只見村十三ヶ村戸長などを務めたため戸長役場文書が比較的多くみられる。これらは『福島県古文書緊急調査報告I』(1981年)にまとめられ、現在当館において閲覧公開されている。この他当館には、六十里越の田子倉口留番所の皆川欣也家文書、檜枝岐口留番所の檜枝岐村文書などが保管されている。なお、長谷部家の住宅は昭和48年(1973)に福島県重要文化財に指定されている。
叶津村絵図では、田畑の位置や近隣の村境が示され、耕地部分には田畑の高反別も記されている。道は朱色、水田と川は水色、畑は黄色、山は灰色、と凡例が右肩に例示されている。耕地は叶津川の両岸の谷底平野で、急峻な山々が取り囲んでいる。西に延びる道は八十里越である。付紙には叶津村名主・組頭・百姓代が連署し、絵図の記載内容を保証している。

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写真は「叶津村絵図」(長谷部大作家文書-796)。

(渡辺智裕)

明治8年4月『霊山奥山入会事歴』

県北の霊峰、霊山はその分水嶺が宇多・伊達両郡の郡境となっている。分水嶺東方が宇多郡、西方が伊達郡である。東方「奥山」の山中には、玉野村(相馬市)が立地していた。明治7年(1874)霊山山麓の伊達郡十数ヵ村(大石・石田など、霊山・保原町)と玉野村の間で、山野利用の争論が起こった。十数ヵ村は往古の玉野開墾を理由に、「奥山」への立入りを主張。玉野村は「奥山」の一村持山、立入り禁止を主張していた(霊山町史1)。本史料は十数ヵ村の惣代がその主張を裏付ける証拠として作成した由緒書である(全11丁・付図4枚)。
由緒書の事項は天正年間から明治7年に及ぶ。冒頭には、「入会山野境界地名」として「奥山」一帯を周回する境界線の地点名を掲載する。主な事項は次のようである。(1)天正年間石田村石田豊前・大石村大石長門は「奥山」一帯を家臣9人に分与した。「霊山嶺続キ小山ヲ猪取山」とある。鳥獣捕獲の「奥山」は「猪取山」と呼ばれていたのである。(2)慶長3年(1598)上杉氏家臣横田大学は相馬海岸と伊達郡を結ぶ往還の中間地点に、「人馬疲労ニ難堪ヲ憂ヒ」、宿駅本玉野村を開いた。宇多・伊達郡から作間備中・堀江与五右衛門ら14人が移住し、「草分百姓」となった。付図は「慶長三年初テ玉野村ヲ拓ク図」である。(3)慶長9年米沢藩福島郡代平林蔵人は「玉野村場所悪敷」を理由に、新たな往還を敷設。新玉野村を開墾した。両郡の村々から多数の農民が移住した。「双方ヨリ住民相集リ田畑共犬牙開墾シ自然雑居トナル、」とある。付図は「慶長九年新玉野村ヘ移之図」である。以下、明治7年に至る由緒が述べられている。9年、宮城上等裁判所は十数ヵ村敗訴の判決を下し、争論は終息した。本史料が争論の証拠資料として採用されることはなかったのである。

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写真は『霊山奥山入会事歴』(遠藤巨三家文書-12)から、表紙と「慶長三年初テ玉野村ヲ拓ク図」。

(阿部俊夫)

簿冊と数字

この欄に、福島県庁文書について気がついたことを書き始めてから、閲覧者より疑問やご意見をいただく機会が増えた。なかには、私が見逃していたこともあり、大いに助けられている。
そこで今回は、寄せられた質問について、その後の調査報告もかねて、記すことにしたい。テーマは「明治・大正期の福島県庁文書」の簿冊背表紙に記された算用数字についてである。
そのマジックにも似た筆運びや墨(インク)の濃度から、数字が簿冊の作成された明治・大正期より後に記されたものであることは疑いない。むろん、当館に搬入された後に、職員が筆を入れるということはありえないので、現用段階のある時点で書き加えられたものと推定できよう。
その答えは、実は右シリーズの目録(『福島県史資料所在目録』第1集)の凡例に記されている。それによると、これらの数字は「文書広報課の整理番号で、書架配列番号である」という。つまり、県庁文書を一括して管理していた文書広報課(当時)時代に付けられたもので、原秩序の一端を示す重要な手がかりといえるのである。そのため目録上でも、出納用の番号とは別に「書架番号」として採録されている。
問題はこれらの数字より、どのような原秩序が浮かびあがるのかという点であるが、結論からいうと判然としない。「書架番号」に従い、並び替えを試みたのであるが、年代・内容ともに錯綜し、はたして本当に現用段階の配列を示しているのかと疑いたくなるほどであった。
このように記すと何の成果もなかったかのようだが、この作業から重要な事実を明らかにすることができた。それは、「書架番号」に多くの欠番が存在していたことである。このことは、文書広報課が管理していた簿冊のうち、当館に移管されていないものがあることを意味している。それらが、現在も廃棄されずに存在しているかは定かでないが、今後の県庁文書収集に際して重要な焦点となることは確かである。
たかが数字、されど数字。今回の「発見」によって、県庁文書の全体像把握に、また一歩近づくことができたような気がしている。

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写真は福島県庁文書の背表紙。上部に算用数字の書き込みがある。

(山田英明)

八十里越の横顔(2)

前回は天明の飢饉の際、八十里越を通って越後からの救援米が運ばれたことを紹介し、八十里越が物資の輸送に重要な役割を果たしていたことを述べた。一方で、山の鞍部を通る峠道は、交通・流通を制限するにも有利な場所でもあった。八十里越では、物資と通行人の取り締まりのため、会津藩や越後村松藩などによって口留番所が置かれていた。
会津側の叶津口留番所役を勤めた長谷部家には、番所に関する史料が多く伝えられている。
宝暦13年(1763)「定留物」(長谷部大作家文書-1737)には、南会津からの移出制限がかけられていた物資が列記されている。定留物としては「女・巣鷹・駒・蝋・漆・鉛・熊皮・紙」の7品目が挙げられ、さらに真綿・木地など26品目が留物とされている。このうち「女」には抵抗を感じるが、幕府による「出女」取り締まりを踏襲したものとされている。そのほかの品目は、いずれも南会津地方の特産物であり、品質・価格維持のために移出を制限していた。同家には、駒や塗物、漆などの物資移出の際に提出された許可証も多く残されている。
一方、通行人の規制に関する史料はあまり多くはない。ただ、眼病治療のため越後へ赴く人が所持していた年不詳「〔出切手〕」(同-2061)などの史料があり、叶津口留番所が通行人を取り締まっていたことは明らかである。
物資・通行人を取り締まるために、口留番所にはある程度の実力装置も必要であった。享保7年(1722)「請取申御番所附道具之事」(同-1855)によると、鑓、つくほう(突く棒)、さすまた、棒、とりかき(取り鉤)が備えられていた。
口留番所は勝れて封建的な施設であり、明治に入ると廃藩置県など中央集権化の進行にともなってその役目を終え、明治4年(1871)に廃止されることになる。

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写真は「叶津村絵図」(長谷部大作家文書-2359)から、口留番所部分を拡大したもの。

(轡田克史)

地域史研究会活動報告

石陽史学会
石陽史学会は昭和58年11月に設立された。本会の前身は故三森武夫氏が中心になり、昭和45年2月に設立した石川遺跡研究同友会である。同会は同年1月、石川地方初の本格的な遺跡調査となった鳥内遺跡の発掘を契機に発足した。
本会の名称は自由民権運動の政社石陽社による。石陽社の会員は郡内は勿論県内外に広がっていたので、歴史的な意義とともに適当とされた。
本会は小規模ながら石川地方に関係する歴史・考古・民俗の研究と文化財の保護を目標とし、研究会と研究誌『石川史談』の発行を最も重視している。研究会の開催は年3回で毎回会員2~3名の研究発表と討論を行っている。発表をもとに『石川史談』の原稿を作成する会員も多い。会員の中には、地元自治体史の執筆に携わるものもあらわれている。会の事業としては他に年1回の研修旅行、新年歴史懇談会を開催している。会の運営は全て会員が行い、経費を含め恒常的な公的機関の援助は受けていない。
『石川史談』の第1号は60年8月に発行し、本年18号を発刊する。毎号論文・報告の他、「資料紹介」・「出版物案内」で新出資料と関係出版物を紹介している。論文は会員の投稿の他に、これまでに小林清治・故梅宮茂・安在邦夫・故田中正能・遠藤巖・糠沢章雄等の諸先生のご協力による論文を掲載した。
また、平成5年11月に創立10周年記念事業として講演会「石川地方の自由民権運動」(講師・安在邦夫早大教授)を開催した。14年11月には自由民権120周年記念事業「吉田光一の足跡を訪ねて」として勢至堂峠の散策、喜多方市自由民権記念館見学等を実施した。15年には創立20周年記念事業として「石川地方の歴史散歩」、講演会「石川地方の仏像」(講師・若林繁県博学芸課長)を開催した。この外、共催事業として2回目の「自由民権大学」石川講座を本年5月に開催した。これらの事業の目的は、一般から参加者を募ることによって地域文化の振興にささやかながら寄与することを願うとともに、会員の発表の場とすることにある。

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写真は石陽史学会の会誌『石川史談』の表紙。

(代表委員 小豆畑 毅)

住所 〒963─7858

石川郡石川町字下泉145小豆畑方

電話 0247─26─1022
会費 3,000円
会員 45人

講習会のご案内

当館では、自治体史編纂事業への理解を深めていただくため、県内各地で歴史資料研究巡回講習会を実施しています。今年度は小高町を会場に、相双地方の歴史や文化に関する報告を中心に開催いたします。講師および演題は、以下の通りです。

  • 伊藤喜良氏(福島大学行政政策学類教授)「南北朝動乱と相馬氏」
  • 松岡進氏(東京都立芦花高等学校教諭)「小高城再考」
  • 川田強氏(小高町教育委員会学芸員)「小高町史編さん事業の取組みについて」
  • 山岸英夫氏(福島県文化振興事業団遺跡調査部)「相馬中村藩山岸硝庫跡―その歴史的背景―」
  • 山田英明(福島県歴史資料館)「福島県における史料保存運動の課題と展望」

外部講師は、当館の事業では初登場の先生ばかりです。詳細につきましては、当館のHPをご覧いただくか、直接当館へお問い合せください。

歴史資料研究巡回講習会

会場  相馬郡小高町 浮舟文化会館
日時  6月11日(土)
時間  午前9時~午後4時40分
受講料 無料

展示のご案内

習いの手びき ~ふくしまの教育史料
近年、「生涯学習」という言葉がさかんに用いられていますが、知識や学びへの関心は古くから存在していました。
江戸時代の福島県域には、いくつもの藩校や寺子屋があり、多くの子供たちが勉強をしていました。明治時代になってからは、今日のような学校制度が整えられ、学習の機会も拡大します。
この展示会では、当館が収蔵する教育関係資料のなかから、代表的な71点を紹介しています。そのなかには、県内で実際に使用されていた教科書のほか、ノートや答案・表彰状などがあります。
なかでも今回の展示で注目していただきたいのは、福島県に関する教科書の記載を集めた「ふくしまを学ぶ」のコーナーです。
本県の地理や歴史が、明治・大正期の教科書のなかでどのように取りあげられていたのか、また全国の子供たちが本県をどう学んだのか、ぜひその目でお確かめください。
ご来場をお待ちしております。

収蔵資料テーマ展 「習いの手びき~ふくしまの教育史料~」

会場  福島県歴史資料館 展示室
会期  4月29日(金)~6月19日(日)
時間  午前9時~午後5時(入場は午後4時半まで)
休館日 毎月曜日
入場料 無料

記憶のなかの戦争
当館では、上記の展示に続いて収蔵資料テーマ展「記憶のなかの戦争」を開催いたします。今年は十五年戦争終結から60周年の記念すべき年にあたります。また、日露戦争の講和から100周年、日清戦争終結から110周年という節目の年でもあります。日本の近代化の過程は、植民地主義の情勢とあいまって「戦争の歴史」といっても過言ではありません。
当館の収蔵資料のなかから、近代の戦争に関するものを展示します。これらの資料は記録化されたり、あるいは人々の記憶に刷り込まれたものばかりです。混迷を深める現代の世界情勢をみるとき、一人一人が過去の戦争のことを少しでも心の片隅に留めていただければ幸いです。

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写真は「戦役紀念絵葉書」(苅宿仲衛家文書〈その2〉-683)の一部を拡大したもの。

収蔵資料テーマ展 「記憶のなかの戦争」

会場  福島県歴史資料館 展示室
会期  7月1日(金)~8月21日(日)
時間  午前9時~午後5時(入場は午後4時半まで)
休館日 毎月曜日、7月19日(7月18日は開館します)
入場料 無料

おしらせ

「友の会」通信
当館では平成17年度から「福島県歴史資料館友の会」を立ち上げました。現在まで200名近くの会員が活動しています。5月から6月にかけて収蔵資料展「習いの手びき」の展示解説や友の会講座「福島県歴史資料館について」が企画されています。多くの方々の参加をお待ちしています。

新寄託文書紹介
陳野武雄家文書(矢祭町大字宝坂)は宝坂村の名主文書。享保14年「陸奥国白川郡宝坂村差出帳」安政6年「小児養育料并貧民御手当帳」など土地・年貢・村況・助郷に関連する文書、約2,000点を収める。幕府塙代官所下に置かれた村々の動静を知る上で、貴重な文書である。