福島県史料情報

福島県史料情報 第9号

『奥州道中絵図』

『奥州道中絵図』は奥州道中沿線の福島から仙台までを描いた絵図で、大きさは縦が27.5センチ、長さは10.48メートルにも及ぶ。年代不詳だが、宿の様子や風景、行き交う人々、竹駒神社などの名所が描かれている。
描かれた宿は、椿館、福島、五十辺、本内、鎌田、瀬上、桑折、藤田、原町、貝田、越河、斎川、白石、刈田、金ガ瀬、大河原、船迫、槻木、岩沼、飯野坂、植松、中田、長町、仙台。道中を行くのは旅人であり、飛脚であり、その他さまざまな人々である。
江戸時代を彷彿させるビジュアルな史料として、福島城下の部分はよく利用されている。しかし、この資料からは、まだ多くの情報を読み取ることができる。
写真は福島県北部、宮城県との県境付近である。藤田宿と原町宿(いずれも現在の伊達郡国見町、図の右側が南・藤田宿方面)の間に国見峠が描かれている。国見山(厚樫山)の中腹を通る道で、峠の頂上には芭蕉も越えたという伊達の大木戸がある。まわりを見渡すと、国見坂の登り口に義経腰掛松が見え、北に下ったところに「仙台ト伊達ト境石仏」が立っている。右の後方には阿武隈川が滔々と流れている。この川の流れはこの後、奥州道中から遠ざかっていくため、次のような注記がある。

此川下是ヨリ塚ノ目大窪光明寺ダンサキサヌマアクト角田等ノカゲヲ廻リ下
岩沼ノ前ツキノキニテ白石川ト出合 岩沼ヘ落ルナリ

ところで、「仙台ト伊達ト境石仏」というのは仙台藩領と伊達郡との境界を意味するのであろう。実際の藩境・郡境は貝田宿と越河宿との間にあり、石仏もこの場所にはないという。奥州道中一の難所とされる国見峠・伊達の大木戸を藩境・郡境と錯覚したのであろうか。

9-1.jpg(轡田 克史)


米沢藩と堀江家文書

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米沢藩30万石は慶長6年(1601)に成立した。県北の伊達・信夫両郡は寛文4年(1664)まで米沢藩領であった。
米沢藩の統治は村々を束ねる大肝煎(信達四郡役)に依拠していた。大肝煎は鈴木源左衛門(信夫郡、福島)・佐藤新右衛門(伊達郡西根郷、桑折)・渡部新左衛門(同郡東根上郷、下保原)・堀江与五右衛門(同郡東根下郷、梁川)・高橋清左衛門(同郡小手郷、秋山)の5人である。
大肝煎の一人、与五右衛門に関する史料は現在、堀江家文書として当館の保管となっている(『福島県歴史資料館収蔵資料目録』35集、1,206点)。米沢藩と与五右衛門の関係を示す史料は26点。耕作地拡大を目論む米沢藩は開田・用水堰開削を積極的に奨励した。そのためか、16点は次のような開田・用水堰に関する史料である。
     富沢堰
一、水引次第
   一番下保原 二番柱田
   三番富沢 四番所沢
一、水指引右四ヶ村之外開作之所何方末々迄無相違可通才覚之事、
一、水盗引在所堤守五人之者共ニ申付、過銭如書付可取之事、
   右之条慥可守之者也、仍如件、
 慶長九年
  三月廿三日 平林(花押)
       堀江与五右衛門との
発給人は平林正恒。正恒は慶長6年から13年(1608)まで、福島奉行・福島郡代両役を兼帯していた。
富沢堰は下保原・柱田・富沢・所沢四ヵ村に架かる用水。一条は四ヵ村の番水、二条は開田の村々の引水、三条は水盗みの罰則規定である。そのような規定に従って富沢堰を統轄するように、与五右衛門は命じられていた。慶長10年「新田永荒開発免許状」は重臣直江兼続が開田50石を命じた史料(史料番号42)。
この他、商人役・市場取立て・普請人足など、貴重な史料が含まれている。

(阿部 俊夫)

文書と印判

前号のこの項では、『福島県報』に捺された「校合済」という朱印を手掛かりとして、当館収蔵本が県報の「原本」にあたることを指摘した。このように、印判の存在は、ときに文書の内容以上に重要な情報を与えてくれることがある。
そこで今回は、私がいま注目をしている印判について述べることにしたい。その印との出会いは、福島県神社庁文書(収蔵資料目録一六集所収)を見返していたときのことである。同文書はもともと県庁文書の一部にもかかわらず、なぜか他のシリーズとは異なる経路で保存・管理されてきたもので、分割された理由を調べていたのであった。
問題の印判とは、同文書群の簿冊のうち、一部の表紙にのみ存在する「酒井」という朱印(写真)である。まだ調査中であるが、主に明治10年代の簿冊に集中しているようだ。
一般に、この時期における県庁文書の表紙に朱印が捺印されていることは、決して珍しくない。しかし、それらは「記帳済」や「永久保存」といった管理上の区分を示すもので、個人(名)の印が押されることはまずありえない。
それでは、この「酒井」印は、どのような意味を有しているのだろうか。
ひとつの可能性としては、酒井という人物が簿冊を閲了した際に付した確認印である。しかし、それならば他の人名印がない点が不自然であるし、そもそも表紙の中央に押すであろうか。
他の可能性として、それらの簿冊が本来(あるいは一時期)酒井某の手許で管理されていたことを示しているとも考えられるが、現時点では判然としない。また、酒井という人物に関しても、当時の官員録などにより確認を進めているが、特定にはまだ時間がかかりそうである。
いずれにせよ、県庁文書の表紙に人名印が見られるということは極めて異例のことであり、その理由が神社庁文書の史料学的特質とも深く関わっていると考えられる。引き続き調査にあたりたい。

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(山田 英明)

『絵本福壽草』

内池永年(1763~1848)は国学者・本居大平に師事し、近世後期の信達地域を代表する国学者であった。
永年を中心とする「みちのく社中」の人々は“県北学”という知の集団を形成していた。彼の思想をひもとく鍵は蔵書群にあり、その分野は多岐にわたっている。その中の『絵本福壽草』5巻5冊(内池輝夫家文書1929)を紹介したい。
表紙の色は紺で、大本の整版本。紙質は楮紙系、袋綴(四つ目綴)。刷題簽は画本福壽草・画本福壽艸、見返題は草花画譜画本福壽草、目録題は絵本福壽草・絵本福壽艸。初版は元文2年(1737)六月発行で、内池本は宝暦5年(1755)正月版である。大岡春卜(1680~1763)の編で、挿絵は大岡春川(1719~1773)が描き、彫刻は藤村善右衛門である。大坂高麗橋一丁目角の藤屋(浅野)弥兵衛・同伊助の梓行で、藤屋は星文堂と称した。
巻頭に元文2年5月の春卜の自序があり、次いでその巻の目録を記す。各巻の目録に「内池家蔵」の蔵書朱印が捺され、上巻の本には自筆で「内池永年蔵」と書き入れがある。本文は、上段の雲形状に仕切られた枠内に植物の和名・漢名・異称やその植物にまつわる詩歌を記し、下段には植物画と花の色や咲く月を旧暦で示している。下巻の末には彩色絵具式と春川による跋文が記されている。
本書は俳書・絵手本・本草書の三側面が既に指摘されている。文政9年(1826)の内池家蔵書目録によれば、永年は同書を『倭人物画譜』と同様「雑書」に分類し、和歌書や俳書は別に綱目を立てている。天保4年(1833)11月に再整理した蔵書目録では、「画品類」に位置付けている。弘化2年(1845)の時点では、永年は30番の書籍箱に「雑書」として保管していた。
彼は近江屋の屋号で薬種業も営んでおり、俳書というより本書の本草書的性格を最も重視していた可能性が高い。なお、蔵書目録によると本書を10匁で購入している。

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地域史研究会活動情報

相馬郷土研究会
相馬郷土研究会は、昭和43年、持舘泰先生(当時相馬高校長)の肝入りで発足。岩崎敏夫・佐藤高俊・小暮知清の諸先生が中心になり会運営に当られた。
この会は広く相馬の、旧中村藩領の地域を対象とし、広い視野に立って歴史とか文学に限定せずにあらゆる分野に亘って学際的な立場で調査研究し、その成果をもとに郷土を正しく理解し、相馬の進むべき道を考えようとしての発足である。
発足時の理念を具現化するために、毎月、会員の研究発表、相馬の中世史を学ぶ歴史講座、古文書学習会、それに年1度外部講師を招聘しての文化講演会の開催。
他に、会誌『相馬郷土』(19号)、『郷土資料叢書』(31輯)、相馬の傑出した人物を扱う『人物叢書』(12輯)、それに会員の著作集(新妻三男『相馬方言考』、『中村風土記』、佐藤高俊翻刻『報徳秘稿』、角野憲夫『相双の歴史とロマン』、松岡重信『相馬今昔』など)の刊行等を主軸に研究活動を続けて現在に至っている。
特に、時宜を得た当地方の文化の情報源として毎月発行している「えおひっぷす」も200号を迎えようとし、多くの方々から好評を得ている。
現在は、幕末中村藩の御用商人として、安政から明治までの30年に亘っての商活動を、時代背景とともに克明に書き続けた『吉田屋源兵衛覚日記』(持舘泰先生翻刻、岩本由輝先生解説)の刊行に、会の総力を挙げて取り組んでいる。歴史・経済・民俗等の研究者から注目されている『日記』であり、相馬の正史を補完する町人の歴史と位置付け、完結を期しているところである。
このような活動が認められ、平成3年には福島県の文化進展に寄与したという理由で、「福島県文化振興基金」表彰を受けた。
相馬の美しい風土、そして正しい歴史を子孫に残すことを目標に会活動を続けていきたいものである。

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住 所 〒976-0042 相馬市中村字大手先13 相馬市教育センター博物館内
電 話 0244-37-2191
会 誌 『相馬郷土』(年1回発行)、『えおひっぷす』(毎月発行)
会 費 3,000円
会員数 150名

展示のご案内

今回の展示は、明治初期やそれ以前の江戸時代の医学について、町医者や藩医師などに関する史料をもとにその様相を明らにしようと企画いたしました。
江戸時代の医学は、西洋医学が徐々に入り、安永3年(1774)杉田玄白の『解体新書』の翻訳刊行を機にオランダ医書が次々に翻訳され、その一つ蘭法医宇田川玄真が文化5年(1808)に出した『医範提綱』には須賀川の版画家亜欧堂田善の人体解剖図が掲載されています。
また、伊達郡伏黒村(現伊達町)生まれの民間医小野隆庵は、中国医書や日本医書を学び臨床実験に基づいた処方箋『古方選』を安永2年(1773)に著しました。隆庵は医家であったが農家でもあり、薬草を自ら栽培してその家訓に「病人は貧富を選ばずに診察すること」と医者の心得を記し、医学研究と治療に一生をささげた人物であります。
江戸時代後期になると長崎に渡来した蘭法医に学ぶために、各地から医師が遊学し、文政6年(1823)には蘭医シーボルトが来日しました。そのころ二本松藩の藩医師小此木天然は、長崎でシーボルトに師事し、帰藩していち早く人体解剖を行い門弟の洋医学の教育に力を尽くしました。
今回、このほか、新千円札の肖像になる野口英世の恩師夫人に対する処方箋等も展示し、医師として活躍した先人達の史料を紹介し、病を治すための弛まない研究努力と、情熱を垣間見るとともにふくしまの医学の歴史について理解を深めていただければ幸いと思います。

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主な展示資料

磐城平藩の藩医師松井家資料 華岡青州肖像画・華岡流手術図・往診箱・外科道具・薬箱・薬研・医書ほか
三春藩医学資料 新薬百品考・外科正宗・御薬拵道具・往診箱ほか
白河藩医師大河原家資料 外科道具・丸薬用ふるい・薬研ほか
二本松藩医師資料 二本松藩家臣録ほか
会津藩領河越家資料 治療医案・師伝秘灸書ほか
民間医小野隆庵資料 古方選・古方選附録煉丹法ほか
亜欧堂田善版画 医範提要内象銅版画
薬草と会津人参 丹羽正伯薬草採取につき申触・御蔵入村々出産人参植付検査・会津人参画ほか
売薬資料 売薬看板・家伝薬・薬湯妙法・虫歯妙薬ほか
野口英世資料

恩師小林栄先生夫人の処方箋・毒蛇及び蛇毒についての論文集・県議会講演写真ほか

会期    10月8日(金) ~11月23日(火)
開館時間  午前9時~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日    毎週月曜日(10月11日は開館します)、10月12日(火)
入場料    無 料