福島県史料情報

福島県史料情報 第7号

八槻都々古別神社の御田植の図

東白川郡棚倉町八槻の都々古別神社の祭礼「御田植」は、1月16日に文化財審議委員によって国の重要無形民俗文化財に指定するよう答申された。
八槻都々古別神社は、近津大明神ともいい、10世紀に編纂された「延喜式」に神名大社とされ、奥州(陸奥)一の宮と言われた。後に馬場都々古別神社と分社されたといわれ、創建の伝説が祭祀遺跡のある建鉾山と関連があり、古代東北開発に関わる歴史的に重要な神社で、国指定重要文化財の銅鉢、同重要美術品の木造十一面観音立像などを遺している。宮司は、中世に熊野先達を務めた八槻氏である。
御田植の神事は、稲作の予祝行事の「田遊び」で旧暦正月6日に行われるが、今年は1月27日に開かれた。拝殿で巫女舞、田植えの準備・田うない・代掻き・種まき・田植えなどの所作を餅で作った農具や松枝を用いて行う。代掻きには木製の車をつけた牛を引き回す(上記図)。「鳥追い」や「水口祭り」などの行事も入り、稲作の過程が演じられる。祭礼は、今行われている御田植の神事のほか祈年・新嘗二祭の神幸行事があった。
上記写真は、明治18年の官社加列願の「祭典之図」である。図は「御田植祭之図」と「祈年新嘗二祭之図式」があり、彩色を加えて祭礼の様子を描き解説を付している。また新嘗祭の図には御仮屋図、神幸行列順図なども描かれている。
祭礼に集まる人々や神幸の範囲は、江戸時代近郷65村に及んでいた。祭礼には籾を入れた藁苞(つとっこ)を奉納しほかの藁苞を持ち帰る信仰や、神幸には仮宮の脇に「升屋」を作り升を安置することなど、農業神の信仰が強く感じられる。

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(村川 友彦)

市町村合併時における公文書の保存を求める声明

総務省によれば、市町村合併に向けた合併協議会を設置した市町村の数が、法定・任意を合わせて1600を超え、全国の市町村数の半数以上にのぼっています。平成17年(2005)3月末までとされる合併特例法の期限に向けて、まさに市町村合併をめぐる動きが全国的にいよいよ本番に入ったといってもよいでしょう。
この間、全国の歴史資料保存利用機関や地方自治体の文書管理担当者、自治体史編さん担当者等で構成される全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(略称、全史料協)は、平成13年(2001)11月、合併に伴う公文書の散逸や廃棄を危惧し、その適切な保存措置を求めた要請文を総務大臣宛に提出し、翌年2月にこれを受けた総務省からは「市町村合併時における公文書等の保存について(要請)」の通達が都道府県市町村合併担当を経て全国の市町村へ出されています。
また、全史料協では、平成14年(2002)7月に、総務省通達文の追跡調査を目的とした市町村合併時における公文書等の保存についてアンケート調査を実施するとともに、同年10月16日から3日間、富山国際会議場を会場として第28回全国大会を開催し、大会テーマの「21世紀の史料保存と利用─市町村合併をとりまく諸問題─」について300名を超える参加者が活発な意見交換を行ったところです。
この大会では、アンケートの結果報告や参加者からの意見として「公文書館法」(昭和62年法律第115号)に対する認識不足や規程の未整備といった文書管理に関する問題点等が出され、また市町村合併に伴う公文書等の保存に関わる様々な課題が提起されました。
「公文書館法」第3条には、「国及び地方公共団体は、歴史資料として重要な公文書等の保存及び利用に関し、適切な措置を講ずる責務を有する」と規定し、地方自治体における公文書等保存の責務を明確にしております。公文書等は住民の共有の財産であり、その保存と利用は合併する各地方自治体の手に委ねられているといっても過言ではありません。また文化行政の視点からも公文書等の保存は無視できない大きな問題です。
このたびの市町村合併にあたっては、合併を協議する場である合併協議会等において、歴史資料として重要な公文書等が散逸や廃棄されることなく合併後の市町村に適切に引き継がれ、その保存と利用が将来にわたって保証される体制に繋がる条項をつくること、そして専門機関である文書館や公文書保存システムが多くの市町村に設立されることを切に望むものです。関係各位の御理解と御協力を願い、ここに声明を発します。
  平成15年8月1日
全国歴史資料保存利用機関連絡協議会


総務省は平成17年3月を目途に市町村合併を進めている。本県においても、飯舘村・鹿島町・原町市任意合併協議会、田村地方五町村合併協議会、須賀川市・長沼町合併協議会、伊達七町合併協議会、喜多方地方五市町村合併協議会など、任意・法定の合併協議会が多数設置されている。
市町村の合併・統廃合は不要となった公文書の大量廃棄・散逸を随伴するであろう。このような事態を危惧して、全国歴史資料保存利用協議会は平成15年8月1日付で、声明文を総務省自治行政局長・独立行政法人国立公文書館長に持参し、各市町村長・各都道府県市町村合併担当者・報道機関に送付した。各市町村の公文書が適切に保存され、後世に引継がれることを切望したい。


幻の『北方詩人』

昨年、ご遺族のご好意により故鈴木俊夫氏(1911~79年)旧蔵資料の一部を当館に搬入した。
特に注目されるのは、昭和3年(1928)8月1日発行の第二次『北方詩人』第2巻第7号で、“幻の号”7冊のうちの1冊である。このほか同第2巻8号・9号、第3巻第1号・2号の4冊があり、鈴木氏自身北方詩人会々員で詩を数編寄稿している。
鈴木氏は昭和3年3月に福島県立中学校を卒業後、4月に飯野尋常高等小学校代用教員となり、当時若干17歳であった。同氏は飯野町や川俣町の町史の編纂に関わり、主な著作に『疣石峠の話』(1957年)がある。これまでは地域史研究者との評価であったが、昭和戦前期においては詩壇でも活躍していたのである。
『北方詩人』は昭和2年9月に祓川光義・大谷忠一郎・阿部哲らによって安積郡豊田村で創刊された昭和戦前期の東北を代表する詩誌の一つで、宮沢賢治がその死の直前である昭和8年9月5日に「産業組合青年会」を寄稿したことでも知られている。猪狩満直・尾形亀之助・草野心平・高村光太郎らも寄稿している。従来知られている『北方詩人』の書誌データは『現代詩誌総覧2』(日外アソシエーツ、1997年)や菅野俊之氏「仙台版『北方詩人』発見」(『板』第III期第5号、2003年)に詳しい。
『北方詩人』第2巻第7号の執筆者とタイトルを示せば、以下の通りである。編輯人は仙台市中杉山通34の鈴木方加藤末男、発行人は福島県安積郡豊田村祓川光義、印刷人は山形県最上郡新庄町南本町西田榮治、発行所は福島県安積郡豊田村北方詩人会、菊判、18頁。

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北方詩人8月号
目次(2―3頁)


〔詩〕黄昏(加藤末男、4頁)/散策(加藤末男、4頁)/爪(北井愼爾、5頁)/梅雨(北井愼爾、5頁)/古い部屋(對馬幹夫、5―6頁)/病みあがり(佐藤豊、6頁)/日かげにゐる母(佐藤豊、7頁)/梅雨(港濶一郎、7頁)/曇つてしまひました(清水延晴、8頁)/明確なひとめ・・・みは・・れ!/(三村無根廣、9頁)/地上歡呼(三村無根廣、9頁)/鐵鎖(三村無根廣、9―10頁)/監獄の近く(岡田刀水士、10頁)/蝶(齋藤一郎、11頁)
〔評論・エッセイ等〕青葉もゆる故郷に添へる(祓川光義、12頁)/雜感【承前】(山本和夫、12頁)/詩集「巣立ち」(福富菁兒、13頁)/「巣立ち」の友へ(南條蘆夫、14―15頁)/寸言偶語―「巣立ち」の著者に與ふ―(三村無根廣、15―17頁)/『巣立ち』を讀む(加藤末男、17―18頁)/雜記(祓川光義、18頁)
〔広告〕芳賀沼満『詩集 青葉もゆる故郷』祓川光義『暮春賦』大谷忠一郎『沙原を歩む』大谷忠一郎『北方の曲』会田毅『手をもがれてゐる塑像』(以上表紙裏)/齋藤一郎『詩集 かなしい半島』(裏表紙裏)/木内進『詩集 巣立ち』(裏表紙)
表紙に蔵書印の「鈴俊蔵書」、裏表紙に「鈴木俊夫」の印がある。表紙絵を描いた尾形亀之助は、村山知義・柳瀬正夢らと「マヴォ」を結成した画家にして詩集『色ガラスの街』の詩人としても知られている。尾形は大正12年(1923)以降、ポスター・図案・広告などの仕事に強い意欲を見せていた。その後の尾形の作品に雑誌の表紙絵・カットなど装幀の仕事がいくつか知られており、この表紙絵もその主張を踏まえての実践であった。この意匠は日時計と方位磁石を組み合わせたもので、尾形の宇宙的思想性をも如実に表現しているのである。

(渡辺 智裕)

『内池随筆』全6巻

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奥州道中瀬上宿(福島市)の近江屋内池家は近江国八幡町を出自とする近江商人。瀬上宿出店は17世紀後半、寛文・延宝年間と伝えられる。
永年(宝暦13・1763~嘉永元・1848)は8代目当主。破産の危機に直面した内池家を再興、内池家中興の祖となった。享和元年備中足守藩は当地に飛地2万石を拝領。永年は足守藩御用達を勤めた。
享和2年隠居。文化10年紀州和歌山を訪れ国学者本居大平に入門。以後、「みちのく社中」を結成し、その主宰者となった。「みちのく社中」は瀬上・桑折宿(桑折町)の大平門人を指導者に、近在の20数名からなる古学・歌道の結社であった。
当館保管・国学者永年の著作は文化12年『出羽国三山容躰精進潔斎記』文政10年『塩釜詣日記』同13年『陸奥国信夫伊達神社記』など。年不詳『内池随筆』はその一著。
全6巻の目次を列記すれば、次のようである。
1巻は天草軍記・日本三部神道・豊臣家事など、2巻は諸葛孔明八陣図・管領上杉家・島津氏など、3巻は出羽国飽海郡二座・日吉社伝一書曰・徳川家御系図略など、4巻は魯西亜顛末漂民・蝦夷地騒動一件・高橋作左衛門一件御仕置申渡写など、5巻は琉球年代記・千石騒動一件・三州騒動など、6巻は大坂出火大変一件・九州一統高潮変・大御所様逝去など。その内容は国学者・素封家の常識として必要な教養的情報・時事的情報である。
永年は大平門人・商売・近江商人・飛脚問屋を通して各地に情報網を張り巡らしていた。伊勢白子の型紙商人、大平門下の沖安海は当地を行商圏としていた。安海との交流も重要な情報源であった。4巻魯西亜顛末漂民は白子から出船した大黒屋光太夫に対する調書。尋問は幕府侍医桂川甫周。この情報源は安海であろうか。6巻大坂出火大変一件は天保8年大塩平八郎の乱の檄文である。註記に「従江州蒲生郡竹村船村某到来」とあり、檄文は永年ゆかりの近江商人から届いていた。
永年はこのようにして入手した情報を逐次、本書に集成したのであろう。本書全6巻は瀬上宿に生きる永年がさまざまな人々との交流を通じて築き上げた重層的な情報網の所産であったのである。

(阿部 俊夫)

『伊勢道中記』

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文久4年(1864、2月20日改元、元治元年)1月15日、石伏村(現在の南会津郡只見町)から伊勢参宮に出発した一行の記録である(目黒宇太次家文書─1)。一行は石伏村のほか、近隣の村からの参加者も含めて、総勢23人で構成されていた。
内容は、通過した宿駅・城下町などを列記し、その間の里程、旅宿・宿賃、様々な出費、町並みや名所の解説・感想などを述べている。こういった内容は、道中記としてはごく一般的なものである。
一行は出発直後、予想外の事態に見舞われる。将軍家茂の上洛に伴って、街道に新しい関所が作られ、鑑札を持たない人間は通さないことになっていたのである。
一行は鑑札を持っていなかったため、田島代官所に申請したが、許可されなかった。幸いこのときは、居合わせた伊勢の御師の口添えで鑑札を手に入れることができた。
その後も各地の関所で足止めされるが、なんとか通過していく。しかし下総国古河に至ったとき、とうとう関所を通ることができなくなり、一行で相談した結果、江戸を通らず、中山道を行くことにした。
実はこのとき、東海道は通行止めになっていたのである。『続徳川実紀』によると、このとき将軍は江戸から海路、大坂経由で京都二条城に入っていた。それに伴い陸上交通も混雑が予想されたことから、東海道が通行止めになっていたという。
東海道の通行止めは1月21日に解除されているが、通行規制の厳しさはその後も続いたようである。碓氷峠でも一時足止めされ、木曽福島の番所は結局通ることができなかった。それでも一行は伊勢参宮後、金毘羅山・京都などを巡り、4月8日に無事帰着した。
この資料からは、将軍上洛も含む幕末の政治史上の動向が、関所の通行規制という形で、庶民の生活にも影響を与えていたことを読み取ることができる。

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(轡田 克史)

展示のご案内

3月12日(金)から4月11日(日)まで、新公開史料展を開催いたします。この新公開史料展は、貴重な史料を寄託していただいている方々に対して感謝の気持ちをこめて、また史料の公開を待ち望んでいらっしゃる皆様に対してお披露目をさせていただく企画です。
今回は史料の整理が終了し『福島県歴史資料館収蔵資料目録』第34集に収録されているおもな史料を展示いたします。ここでは、今回の展示について少しご紹介いたします。
早田傳之助家文書 その2
伊達郡北半田村(現在の伊達郡桑折町)の名主・戸長を務めた家の文書で、文書の大半は半田銀山関係の史料です。目録第33集の早田傳之助家文書の史料と併せると半田銀山の盛衰が把握できます。
円谷重夫家文書 その3
石川郡明岡村(現在の西白河郡矢吹町)の庄屋文書です。目録第17集のその1・その2の史料と併せると阿武隈川通船史の一端が見えてきます。
野地一二氏史料
いずれも信夫郡関谷村(現在の福島市松川町)の検地帳です。特に万治元年(1658)の「信夫之内関屋村御蔵定納御帳」は関谷村が米沢藩領であったころの貴重な史料です。
これらの他にも様々な史料が展示されます。先人達が書き記した史料を通して福島県の歴史を発見してみてはいかがでしょうか。皆様のご来館をお待ちしております。

会 期 平成16年3月12日(金)~4月11日(
時 間 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 月曜日
入場料 無 料