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 鉄づくりイベント報告 その1  


<できた鉄(ケラ)を動かす>

<ケラが水槽に入った瞬間>
 なぜなら、発掘調査で確認できる炉壁は、全て操業により炉の内側が溶解したものばかりで、出土した炉壁の厚さが、そのまま構築時の炉壁の厚さではないからです。操業により、どの程度、炉壁が溶解したのかはわかりません。
 このため、今回の操業では、炉の大きさが類似している明治30年代に稼働していた島根県砺波タタラや価谷タタラの構築時の図面を参考にしました。右の図に示したのがその図面です。

  「せーの!!」5・6人で、製鉄炉の底にできた熱くて重い鉄の塊を、パイプで少しずつ動かします。そして、水槽の中にそれを沈めます。その瞬間、水蒸気が辺り一面に広がり、水が一瞬で熱湯となりました。
 右の写真は、去る11月5・6日に行われた「鉄づくり」イベントのクライマックスのようすです。
 今回の鉄づくりでは、2年前の操業結果を受け、今から1,200年前に稼働した1基の製鉄炉を原寸大で復元し、これの操業を行いました。復元した製鉄炉は、原町市にある大船迫A遺跡の15号製鉄炉です。この炉は、平安時代9世紀前半の炉で、調査の結果、最低でも2回の操業が行われていたことが判明しています。そして、2回目の操業では操業中に炉壁が倒壊し、廃棄されたままの状態で発見されました。
 古代の鉄づくりでは、製鉄炉は1回限りのもので、操業が成功しようがしまいが、鉄を取り出すために、炉は壊されてしまいます。このため、当時の炉の大きさが明確に把握できません。それが、この大船迫A遺跡15号製鉄炉では、操業中のアクシデントがあったため、炉の大きさを推測することができました。
 炉の大きさは、炉の底に残る熱の痕跡から、幅35p程度、長さ185p程度であり、倒壊した炉壁から、その高さは110p程度と判明しました。
 ただ、この規模は前述したように操業で熱を受けた痕跡からの推定ですので、構築時の炉の大きさは推測するしかありません。
 今回、最も苦慮したのは、この構築時の大きさ、特に炉壁の厚さでした。これを推定することは非常に困難です。


<砺波タタラ(左)と価谷タタラ(左):1933 俵國一「古代の砂鉄製錬法」より転載>

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