4 笊内出土馬具の類例と編年的位置付け

 1)棘葉形鏡板付轡・杏葉
 馬装の中心をなす鏡板および杏葉は、棘葉形に分類されるものであるが、この馬具は同じ形式の中でも形態的に個々の変異が大きく、類例の選定はまず棘葉形鏡板・杏葉を集成し、それらの型式学的変遷を明らかにした上で行う必要がある。
 筆者の桃崎はさきに「棘葉形杏葉・鏡板の変遷とその意義」において、当時知られていた類例の集成・分類をもとに型式組列ならびに馬装の一端である杏葉の懸垂方式の変遷過程を整理した(桃崎2001)。その内容をもとに、その後報告された岡山県津山市的場2号墳(津山市教育委員会2001)、長崎県壱岐勝本町双六古墳(勝本町2001)、そして朝鮮半島の新羅慶州皇吾洞16号墳(有光・藤井2000)の例を加え、内容を補正したのが以下の変遷図である(図1)。なお変遷図に示されたA・B・C・D・E・F類とは棘葉形鏡板・杏葉に見られる5種に大別した製作技法である。
 製作技法による分類と系統
 A類 鉄製地板+透彫金銅板+縁金タイプ 
 (A1類:あらかじめ鍍金した薄い金銅板を切り抜いて文様板とするもの。)
 (A2類:厚い銅板に透彫や彫崩しを施し、アマルガム鍍金して文様板とするもの。)
  銀冠塚→鶏林路14号墳→足利公園3(M)号墳→賤機山
 B類 地板+金銅板+彫崩透枠金一体タイプ
  壺卯塚A→沖ノ島B→多久口木2号墳→皇南洞151号→林石杜邱洞2号
  →伊勢神宮→藤ノ木A
  沖ノ島A→熱田神宮→打越稲荷山
  昌寧校洞7号→壺卯塚B→明神山1号→味鄒王陵57号
 C類 地板+金銅板+鉄心金銅板・銀板巻透彫文様板縁金一体タイプ
  味鄒王陵12号→造塔里3号2槨→皇吾里16号第1槨→天満1号墳→片山
  馬越長火塚→風返稲荷山→田辺
 D類 地板+鉄製文様板+金銅板・銀板被せタイプ 
  笊内37号・奉安塚・仁田山ノ崎A・らちめん・白石二子山
  →放れ山・勝手野3号墳・的場2号墳・仁田山ノ崎B
 E類 地板+金銅板+中空縁金
  伝高霊池山洞→皇吾里16号第1槨→埼玉将軍山→才園2号墳→文堂
 F類 透彫金銅板のみ(有機質地板を伴うものを含む)
  沖ノ島C→双六→八幡観音塚→道上・しどめ→伝群馬県・法隆寺荘厳具→毛彫馬具
 以上のうち、棘葉形杏葉を代表する藤ノ木古墳A例(B類)では地板鉄板上に、紋様を透彫し彫崩しも併用した銅板に鍍金を施したものを鋲留めしているが、賤機山古墳例(A2類)では紋様板の彫刻が更に立体的かつ流麗で、鉄芯に金銅板を着せた縁金を追加して鋲接されているとみられ、その精緻さは極致に達し、棘葉形杏葉の頂点に立つ作といえる。一方足利公園3(M)号墳例(A1類)では賤機山例と一見構造が似ているが、文様板はあらかじめ鍍金した薄い金銅板を切り抜いたもので印象は全く異なる。さらに埼玉将軍山(E類)では地板の構造・材質が不明だが、薄い金銅板を槌起し断面蒲鉾形の中空縁金で透彫文様を表現した杏葉が出土している。双六(F類)では厚い金銅板を打ち抜いて鍍金した大型杏葉が出土している。
 ところが以上に挙げた古墳は、いずれも出土須恵器の大部分がTK43型式期のもので占められる点で一致し、これらA1・A2・B・E・F類の各々異なる技法の杏葉がほぼ同時期に製作されたことを示しており、より複雑な技術と簡略な技術が同時併存していることは明らかである。すると製作技法の相違は、各技術形式の系譜の相違ならびに技術複合の精粗による階層構造を暗示していると考えられる。一方朝鮮半島の例では、列島の例ほど極端な形状・製作技法の分化はみられない。すると編年にあたっては、各製作技法群ごとに分類した上で群内の相対的な先後関係を定め、それぞれの群を文様構成、組み合う鏡板やその他の馬具類の型式、共伴遺物や古墳構造の年代観などによって併行関係を整理する手続きを踏む必要がある。よって製作技法の精緻なものを舶載、その便化したものを国産としたり、特定の製作技法を特定の年代に比定する小野山・岡安氏の論はもはや過去のものとなったといえるが、笊内37号横穴墓例のD類に関してはどうであろうか。この種の技法は奉安塚・仁田山ノ崎A・らちめん・白石二子山・放れ山・勝手野3号・的場2号・仁田山ノ崎BなどTK209型式新相からTK217型式にかけての須恵器を共伴する古墳の出土品に限定され、TK43型式新相〜TK209型式中新相にかけての馬越長火塚・田辺・風返稲荷山などC類の意匠と型式学的に連続し、C類の鉄製文様板に金銅板を巻いて着せる技法が退化し、文様・地板鉄板の全面を1枚の金銅板で覆うかたちに簡略化して出現したもので(よって小野山氏や岡安氏がこれらを5世紀以来の在来槌起技法の復活と見ることは、的を得たものではない)、毛彫馬具につながるF類の新しい事例とともに仏教美術意匠と共通点が多く、また鏡板・杏葉の地板・文様板を共有するともづくり化が顕著であり、明確な技術の方向性を示している。すなわち仏教寺院造営の開始に伴う工人集団ならびに製作技法の再編・合理化を背景として出現したことが予測されるのである。なお、C類からD類に転換する年代については、奈良県広陵町牧野古墳から出土した2組の三葉立心葉形杏葉にそれぞれC類とD類の双方が採用されており、TK209型式古相の須恵器が共伴していること、この古墳が587〜600年頃没した押坂彦人大兄皇子の成相墓とみられる点が参考となる(広陵町教育委員会1987)。
 棘葉形杏葉の出現と変遷過程
 棘葉形杏葉は朝鮮半島南部域に原形があるが、その祖型の基点をどこに置くかはむずかしい。中国北朝から隋初の陶俑には列島の6世紀代の杏葉に類似する尻繋の表現がある。これらの形状の多くは日本でいう鐘形杏葉に相当するもので、なかでも河北省慈県北斉高潤墓(576年)では鐘形杏葉に斜格子状の文様までリアルに表現されており、山東省済南東八里窪南朝墓、東魏の河北省滋県東陳村1号趙胡仁墓(547年)・茹茹公主墓(550年)、華南省安陽北斉范粋墓(562年)にも類似の櫛形表現がある。(森1988)。しかしこれらの実物は全く見つかっていない。列島の古墳では杏葉を懸下した吊手金具のみが出土し、有機質の杏葉が想定される例がある。よって南北朝期の馬俑に表現された櫛形垂飾も金属製ではなく、布帛や染革製など有機質の可能性があり、後藤守一氏はこれらを「厚房」と呼び、色糸を束ねた房と推定した(後藤1942)。
 なお山西省太原北斉婁叡墓(570年没)の馬俑には棘葉形杏葉に類似する表現があり、これは新羅慶州味鄒王陵地区4・5号墳出土の下端部が尖る杏葉と似ている。その系譜に連なるものは列島にも例があり、ウィリアム・ゴーランド氏が京都府亀岡市鹿谷古墳群でf字形鏡板付轡・剣菱形杏葉6とともに収集した棘車輪状透彫鏡板付轡(キャップ状金具・菊鋲を伴う。若林1900に彩色画あり)とおそらくセットで出土した五棘の小型杏葉で、写真より3点が確認できる。その形状はちょうど扁円剣菱形杏葉の剣菱部だけを独立させたような形状を示している(上田校註・監修1981)。ただしこれらの杏葉は、遅くとも6世紀中葉には収まると考えられるので、6世紀後半の婁叡墓のものを原型としたわけではない。
 以上は半島・列島の祖型と考えるにはやや難のあるところだが、現在の知見によるかぎりは、棘葉形杏葉は、朝鮮半島南部の扁円魚尾形杏葉を原型とし、扁円部の退化と魚尾部の発達の過程で6世紀前半代に成立したとみられ、新羅・伽耶域に例がある。魚尾形の系統と精美型式の棘葉形は新羅慶州壺杆塚の段階で交代し、新羅慶州鶏林路14号墳や伽耶伝高霊池山洞例がやや古く林石杜邱洞5号墳・新羅慶州皇南洞151号・皇吾里16号墳例がやや新しいようだが、いずれも6世紀第2〜3四半期を前後する時期と思われる。列島では壺杆塚とほぼ同じ構造のものが福岡県宗像市沖ノ島7号遺跡や栃木県足利市明神山1号墳、福岡県前原市多久口木2号で出土しており、うち多久口木2号はTK10〜MT85期頃の須恵器を伴うため、この時期に半島製の棘葉形杏葉の導入が開始されたと考えられる。
 しかし沖ノ島Aの卓越した出来栄えに見るごとく、精美型式の棘葉形は突然形成され、その成立に外来要素が加わった可能性がある。セットをなす心葉形十字文鏡板付轡は原形が高句麗域に見られること、鏡板外側に二条線引手を伴う構造は4〜5世紀の鮮卑・高句麗系轡に由来すること、初期の型式を出土した壺杆塚や鶏林路14号墳が北方系文物を共伴している点から、高句麗や北朝の影響が推測される。愛知県名古屋市熱田神宮蔵品は鉄製三連銜を伴う特異な銅製鍍金の小型心葉形十字文鏡板の形状・法量が、韓国ソウル市峨嵯山4号堡塁出土の鉄製十字文鏡板文様板とよく似ているため、セットをなす埋め殺し鋲を伴う棘葉形杏葉4点とともに舶載品の可能性が高いと考えられる。峨嵯山は475年以降の5世紀後半〜6世紀にかけての高句麗の前線基地と見られているため、その原型は高句麗以北に存在する可能性がある。
 では、列島での製作開始がいつか問題となるが、ここで鉄芯をもたない金銅板打出中空文様板の事例に注目しよう。新羅慶州の皇吾洞16号墳第1槨では、中空縁金および文様一体の三棘杏葉が半球形四脚辻金具やW字形銜留付環状鏡板付轡と共伴している。このセットと同じ技法と類似する意匠で製作されたのが埼玉県行田市埼玉将軍山古墳の七棘杏葉・辻金具で、これに後続するものが熊本県免田町才園2号墳で出土している。また足利公園3号墳でも形式不明の轡とともに縁金が中空構造で猪目・忍冬唐草文の透かし彫り文様板を挟み込む5棘杏葉が出土しており、透彫文様の意匠は沖ノ島Aや群馬県高崎市綿貫観音山古墳に近い。これらは舶載から国産に転換する移行期の様相を示していると推定され、埼玉将軍山はTK43古段階の、足利公園3号もTK43新段階の須恵器を伴っており、6世紀第4四半期頃、国産が開始されたと考えられる。沖ノ島Aの立聞金具・菊鋲を受け継ぐ熊本県熊本市打越稲荷山は舶載か列島産か判断が難しいが、TK43期頃の副葬とみられる三重県伊勢神宮蔵品や奈良県斑鳩町藤ノ木古墳、静岡県静岡市賤機山古墳などは製作技法・形状とも大陸・半島に類品が見られず、列島で製作された可能性が高いと判断される。安易な舶載説には何ら説得力がない。
 なお受容段階の棘葉形杏葉は、例外なく十字文心葉形鏡板付轡と組み合っているだけでなく、意匠や技法を共有する心葉形鏡板・杏葉が常に存在する点で一貫しており、これらは両者がしばしば同一工房で製作されたことを窺わせる。心葉形杏葉・鏡板は類例が多く共伴遺物の年代が判明する例も少なくないので、比較検討は系譜・年代推定の上で有効である。
 壺杆塚Aや沖ノ島Bは立聞直下から垂下する二股蕨手文が文様中央上寄りのハート形透に接し、縁金具に密な鋲打ちを施す構成が伽耶昌寧校洞7号墳の心葉形杏葉に通じる。新羅慶州銀冠塚にも同様な要素が見られ、慶州天馬塚の心葉形杏葉の文様に類似する。
 壺杆塚Bは中央に縦長のアーモンド形の透文があり、両脇に各5本ずつ蕨手文が派生する。これに類似する構成は福岡県宇美町正籠3号墳の楕円形十字文鏡板付轡に伴う心葉形杏葉に見られ、縦長アーモンド形透文部や縁金の密な鋲打もよく似ている。この古墳では鉄製輪鐙、捩複素環轡、辻金具などの馬具とともにMT15型式の須恵器が出土している。
 沖ノ島Aに見る向かい合った蕨手表現の重なりにみられる菱形透は井田川茶臼山(MT15〜TK10)の心葉形杏葉に類似する。向かい合った蕨手表現が下の尖る桃形蕨手文と組み合う例は宮崎県高鍋町持田56号墳にみられ、文様の要に菊鋲を打つ点も共通する。
 熱田神宮杏葉内部文様の上半分に見る心葉形を形づくる向かい合った蕨手の中央に剣先形を垂下させ三葉文とする意匠は大阪府茨木市海北塚Aセット(後藤1941)・岐阜県各務原市大牧1号例と類似し、後続する湖巖美術館所蔵、金東鉉コレクションの伝高霊池山洞の二重心葉意匠の杏葉にも見られ、縁金の鋲打ちがまばらでなおかつ埋め殺しがなされている点はこちらに近い。この杏葉類は、立聞と同幅の金具に責金具を介して大きい菊鋲を一つ打つ(湖巖美術館1997)。また福岡県八女市岩戸山古墳別区の石馬尻繋に表現された杏葉(森1974)と似ている。なお岩戸山では、胸繋に5個の大型馬鐸が表現されているが、これを大型棘葉形杏葉3個に置き換えると、それはまさに伝高霊池山洞のセットとなる。石馬の年代を筑紫君磐井の没年とされる527年前後に置くと、金冠を共伴し大伽耶王陵の副葬品と目される池山洞例は、大伽耶が新羅に投降した532年前後から、滅亡する562年を降らないと考えられる。
 熱田神宮杏葉の下半分の向かい合った連続蕨手文と猪目に近い蕨手文から下に垂下するありかたは天馬塚の心葉形杏葉にみられる。また、すれちがい蕨手文や縦に垂下する直線は伽耶大邸飛山洞37号や伝高霊出土一括品の心葉形杏葉にも見られる。

図2 棘葉形杏葉と心葉形鏡板・杏葉の意匠の共有
1 ・1 9 新羅慶州壺杆塚(金載元1 9 4 8 原図)
2 ・2 0 福岡県沖ノ島7 号祭祀遺跡(原田大六1 9 5 8 )
3 栃木県足利公園3 号墳(神林淳雄原図)
4 愛知県馬越長火塚古墳(豊橋市美術博物館2 0 0 0 写真よりトレース)
5 兵庫県田辺古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
6 福島県笊内3 7 号横穴墓(佐藤博重・玉川一郎1 9 7 9 原図)
7 島根県放れ山古墳(松尾充晶1 9 9 9 )
8 兵庫県文堂古墳(中村典男1 9 9 2 )
9a ・b 福岡県宇美町正籠3 号墳(平ノ内幸治1 9 9 0 )
1 0a ・b 金東鉉コレクション伝高霊出土一括品(金冠共伴遺物)(湖
巖美術館1 9 9 7 )
1 1a ・b 宮崎県持田5 6 号墳(松尾充晶1 9 9 9 )
1 2 群馬県高崎市綿貫観音山古墳(群馬県古墳時代研究会1 9 9 6 )
1 3a ・b 神奈川県伊勢原市登尾山古墳(立花実・手塚真実1 9 9 8 原図)
1 4 新羅慶州皇吾里1 6 号墳1 1 槨(有光教一・藤井和雄2 0 0 0 )
1 5 ・3 1 伊勢神宮徴古館(後藤守一1 9 4 1 原図)
1 6a ・b 大分県杵築市的場2 号墳(宮内克巳1 9 9 1 )
1 7a ・b 福岡県宇美町長浦1 号墳(平ノ内幸治1 9 8 1 )
1 8 千葉県金鈴塚古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
2 1 愛知県熱田神宮(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
2 2 奈良県藤ノ木古墳(千賀久・鹿野吉則1 9 9 0 )
2 3 京都府奉安塚古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
2 4 群馬県白石二子山古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
2 5 神奈川県らちめん古墳(関根孝夫1 9 9 9 原図)
2 6 岡山県的場2 号墳(津山市教育委員会2 0 0 1 )
2 7 伽耶昌寧校洞7 号墳(穴沢和光・馬目順一1 9 7 5 )
2 8 金東鉉コレクション(湖巖美術館1 9 9 7 )
2 9a ・b 大阪府海北塚古墳(松尾充晶1 9 9 9 )
3 0 岐阜県各務原市ふなつか古墳(玉城一枝1 9 9 6 )
3 2 奈良県玉城山3 号墳(玉城一枝1 9 9 6 )
3 3 岐阜県古川町信包八幡神社古墳(沢村1 9 9 6 )
3 4a ・b 静岡県静岡市池田山2 号墳(望月薫弘編1 9 6 8 )
3 5a ・b 静岡県富士宮市別所1 号墳(川江秀孝1 9 9 2 )
3 6 福岡県北九州市日明一本松塚古墳(小田富士雄1 9 8 8 )
3 7 千葉県成東町駄ノ塚古墳(国立歴史民俗博物館1 9 9 6 )
3 8a ・b 福井県鯖江市丸山4 号墳(青木豊昭1 9 9 0 )
図3 棘葉形鏡板・杏葉ともづくりのセットと関連型式
1a ・b 兵庫県田辺古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース。
ただし1a は小野山1 9 9 0 の記述にもとづく想像図)
2a ・b ・c ・d 福島県笊内3 7 号横穴墓(佐藤博重・玉川一郎1 9 7 9
原図)
3a ・b 京都府奉安塚古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース)
4a ・b 神奈川県らちめん古墳(関根孝夫1 9 9 9 原図)
5a ・b 兵庫県勝手野3 号墳(岸本直文1 9 9 7 写真よりスケッチ)
6a ・b ・c ・d 島根県放れ山古墳(松尾充晶1 9 9 9 )
7a ・b 愛知県馬越長火塚古墳(豊橋市美術博物館2 0 0 0 写真よりト
レース)
8a ・b 茨城県風返稲荷山古墳(霞ヶ浦町遺跡調査会2 0 0 0 )
9a ・b 静岡県仁田山ノ崎古墳A
1 0a ・b ・c 群馬県白石二子山古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真より
トレース)
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 打越稲荷山に見る二股蕨手と心葉形を組み合わせた複合意匠ならびに金銅吊金具の菊鋲打ちは伝高霊池山洞出土一括品と通じている。伝池山洞出土の心葉形鏡板付轡は宮崎県高鍋町持田56号墳例と類似し、二連銜の外環を鉄板地板の銜通孔に通し縦銜留で固定し、これをキャップ状金具で覆った上から文様板を重ねて鋲留したもので、鏡板の内側では銜外環に遊環を介して二条線引手を連結する。足利公園3号墳(TK43)杏葉は、縁金の構造・鋲密に若干の相違があるものの、内部の透彫金銅板の上半分に表現された連接C字文と猪目形透は綿貫観音山(TK43)の心葉形杏葉とほぼ同じで、立聞直下の三角形透も共通する。
 愛知県豊橋市馬越長火塚古墳例の上半部の構成は下向き二股蕨手紋と二重心葉形の組み合わせで、ほぼ同じ構成が神奈川県伊勢原市登尾山の心葉形鏡板・杏葉(立花・手島1998)にみられ、立聞の懸垂方法も近い。登尾山ではTK43型式新段階とされる長脚高坏が共伴している。
 伊勢神宮徴古館例に類似する意匠は奈良県橿原市妙法寺出土品や福岡県津屋崎町出土品(後藤1941)が挙げられる。
 藤ノ木Aに最も近いのは奈良県桜井市珠城山3号の心葉形杏葉で、二股忍冬文の下の双鳳凰文が共通するが、藤ノ木の鳳凰は向かい合うが珠城山3号では互いに外を向く。ともにTK43期のものである。
 賤機山Aに最も近いのは静岡県島田市御子屋原古墳の心葉形十字文金銅透彫杏葉である。御子屋原の鏡板は銜通孔座が、林石杜邱洞5号や宇洞ケ谷洞穴の鏡板の特徴と通じ方形であるのに対し、賤機山や藤ノ木、珠城山3号の銜通孔座は楕円形である。
 以上はいずれも、棘葉形杏葉が鏡板とは別形態をとる段階のものである。ではともづくり化以降はどうか。
 兵庫県神戸市田辺古墳のともづくり鏡板・杏葉は文様中央にハート形文があり、その上は立聞直下までくびれた細長い空間となっている。類似した構成は伊勢神宮徴古館蔵の心葉形鏡板に見られるが、こちらは幅広の立聞孔に同幅の金銅吊金具を通す構造で若干古い時期のものと見られる。
 京都府福知山市奉安塚や群馬県藤岡市白石二子山など、本来心葉形鏡板の要素であった十字文意匠と融合し、垂直分線の両側に鈎状突起を派生する構成は、静岡市池田山2号のともづくり心葉形杏葉・鏡板(下向き)、岐阜県吉川町信包八幡神社古墳(上向き)に通じている。これらは立聞頭が丸く、そこに横列2個の鋲打ちで直接革帯に留める構造である。
 神奈川県伊勢原市らちめん古墳例は上半分が三葉形、下半分が花形花弁状の特異な構成であるが、内区文様の上半分は、立聞直下に菱形透孔を伴う牧野古墳(TK209)、立聞下に透孔のない静岡県富士宮市別所古墳、福岡県竹原古墳、長野県伊那市狐塚南古墳の障泥吊金具など三葉文構成と比べると、中央の円形浮文が異なる。そのような中で、福岡県北九州市日明一本松塚の小型心葉形の鏡板?はきわめて寸詰まりの三葉形、円形浮文、縁部四鋲留など共通点が多い。ただしこちらの立聞は横二列鋲打である。
 島根県出雲市放れ山古墳の鏡板・杏葉の6弁花状の打ち出しに囲まれた丸い区画は千葉県金鈴塚Bセットの心葉形鏡板・杏葉の内区文様と類似し、仏像光背の中心文様に表現された蓮華紋に由来すると見られるが、金鈴塚B例は区画内が下すぼみの蔦形に近く、片山古墳や文堂古墳の小型杏葉の内部文様に通じている。
 岡山県津山市的場2号墳では立聞直下に三角形透があり、その下に二列構成で円形文7個をU字形に配列する。花形鏡板・杏葉では一般的に放射状に円文を配置するためこうした配列は少ないが、富山県高岡市矢田上野11号墳の花形鏡板は小型で円文13個の配置方式にも共通点がある。心葉形鏡板・杏葉にもこうした連珠表現のある千葉県成東町駄ノ塚、福井県鯖江市丸山4号のような例がある。
 さて以上の状況をふまえれば、おそらく棘葉杏葉が鏡板とともづくり化した後も、これと同一意匠の心葉形鏡板・杏葉が常に存在すると考えて誤りないであろう。そこで笊内37号横穴墓例に対比できる心葉形の例を求めてみる。福岡県宇美町岩長浦1号墳(TK217)で出土した心葉形鏡板付轡は立聞孔が既に消失して鋲打した直下に三角形透があり、八脚雲珠と四脚辻金具6点を伴う。辻金具2点以外は風返A組に近い宝珠飾を伴う。さらに大分県杵築市的場2号墳(TK217)の心葉形鏡板・杏葉は三角形・菱形・つぶれた心葉形透で両脇に支持線がのびる(宮内1991)。この立聞には方形孔があり、二列鋲打ちのある鉤金具で懸垂されており、構造・文様とも笊内37号横穴墓に最も近い構造を示すと考えられる。すると笊内37号横穴墓は共伴遺物からも同一意匠の使用時期からもTK217期の副葬とみて誤りなく、製作もそれを大きく遡ることはない。
 TK43新段階以降の製作と推定される馬越長火塚・TK209期古〜中段階頃の風返稲荷山は組み合う鏡板付轡の形状が確認できないが、いまだともづくりには至っていないらしい。ところがTK209〜TK217型式期にこうしたセット関係に変化が生じる。すなわち鏡板と杏葉がともづくりになるものがある。大型のものでは奉安塚・笊内37号横穴墓・らちめん、小型化したものでは田辺・勝手野3号墳・放れ山などがその例で、笊内37号横穴墓の鏡板・杏葉は大型品と小型品の中間の大きさを示す。 
 まず編年全体(図1)でみると、笊内37号横穴墓が7世紀前半にかかる@ともづくり鏡板・杏葉で、A地板鉄板と文様鉄板を全面1枚の金銅板で被覆するD類、B雲珠および辻金具は方脚に無鋲鉤金具を介して杏葉を懸垂することが確認できる。
 次にともづくりであるが、これは棘葉形のほか心葉形・鐘形・花形などの鏡板・杏葉に見られる。しかし鐘形の場合は鏡板・杏葉に完全な同一形態のものはなく、心葉形・花形についても出現当初は、鏡板・杏葉の形態・法量に多少の差異を設けるセットをなしており、同一意匠による馬装の統一感を意図して成立するものの、工程の簡略化には寄与するものとはなっていない。これに対し、伴出須恵器でいうTK43型式新段階から209型式古段階を境に、鏡板・杏葉間で地板・文様板の型を共有するセットが現れ、棘葉形鏡板・杏葉の組み合わせは、特異な形状の十字文方形鏡板付轡と異形棘葉形杏葉が組み合う群馬県藤岡市白石二子山例を除き、すべてこの種の構造をなしている。よって列島の事例に関する限り、鐘形鏡板・杏葉と棘葉形鏡板・杏葉は異なる設計概念に基づいて製作されており、他の部品セットの差違からも、馬具工房間の統合が進行すると考えられる6世紀末の段階までは、製作工房(群)も別であったと考えられる。笊内37号例では、鏡板付轡・杏葉が左右裏返しの平面形として対応関係にあり、製作工程を区別するために意図的に表裏の使い分けを行っている。同じ型の地板・文様鉄板・金銅板の複数作成・使用が可能となるこの手法は、明らかに製作工程の合理化を前提としたもので,単なる意匠の共有とは区別すべき現象である。
 ともづくりの開始は、鉄製地板と銜端を鍛接して後に縁金や文様板を鋲留する工程の採用を前提とするため、平坦面での作業に制限が生じるので、鋲留を出来るだけ簡略にする必要があるが、このためかともづくりの杏葉・鏡板は極端な鋲数の減少が見られる。
 こうしたともづくりグループ内でも,更に製作技法による細別が可能である。松尾充晶氏は鏡板と銜端の連結方法を検討し、T類(連結軸を使用し、別造りの覆い金具をかぶせるもの)、U類(連結軸を使用し、上板と一体造りの覆い部をかぶせるもの)、V類(銜先端をかしめて固定し、上板と一体造りの覆い部を被せるもの)に三分類した。そして更に地板に直接銜端の突起を貫通させる技法をV−A類(覆い部をもつもの)、V−B類(平坦な地板を重ねるもの)、V−C類(リベット状に突起が露出するもの)に細分した(松尾1999)。棘葉形鏡板付轡は現在確認できる事例によれば、すべてV類とみられ、V−A類に兵庫県小野市田辺古墳(別造りキャップ状金具)、白石二子山古墳・京都府福知山市奉安塚・神奈川県伊勢原市らちめん古墳(文様鉄板上の半球形キャップ状隆起)、島根県松江市放れ山古墳(被せた金銅板に銜端のリベット状隆起が盛り上がる)、V−B類には笊内37号横穴墓例のほか兵庫県小野市勝手野3号墳の例がある。V−C類は棘葉形鏡板ではいまのところ類例が知られていないが、棘葉形杏葉と組み合う心葉形鏡板である静岡県榛原町仁田山ノ崎A・B組がこの例であるほか、しばしば毛彫杏葉と組み合う方形鏡板付轡にもこの技法が採用されている。