4 笊内出土馬具の類例と編年的位置付け
1)棘葉形鏡板付轡・杏葉
馬装の中心をなす鏡板および杏葉は、棘葉形に分類されるものであるが、この馬具は同じ形式の中でも形態的に個々の変異が大きく、類例の選定はまず棘葉形鏡板・杏葉を集成し、それらの型式学的変遷を明らかにした上で行う必要がある。
筆者の桃崎はさきに「棘葉形杏葉・鏡板の変遷とその意義」において、当時知られていた類例の集成・分類をもとに型式組列ならびに馬装の一端である杏葉の懸垂方式の変遷過程を整理した(桃崎2001)。その内容をもとに、その後報告された岡山県津山市的場2号墳(津山市教育委員会2001)、長崎県壱岐勝本町双六古墳(勝本町2001)、そして朝鮮半島の新羅慶州皇吾洞16号墳(有光・藤井2000)の例を加え、内容を補正したのが以下の変遷図である(図1)。なお変遷図に示されたA・B・C・D・E・F類とは棘葉形鏡板・杏葉に見られる5種に大別した製作技法である。
製作技法による分類と系統
A類 鉄製地板+透彫金銅板+縁金タイプ
(A1類:あらかじめ鍍金した薄い金銅板を切り抜いて文様板とするもの。)
(A2類:厚い銅板に透彫や彫崩しを施し、アマルガム鍍金して文様板とするもの。)
銀冠塚→鶏林路14号墳→足利公園3(M)号墳→賤機山
B類 地板+金銅板+彫崩透枠金一体タイプ
壺卯塚A→沖ノ島B→多久口木2号墳→皇南洞151号→林石杜邱洞2号
→伊勢神宮→藤ノ木A
沖ノ島A→熱田神宮→打越稲荷山
昌寧校洞7号→壺卯塚B→明神山1号→味鄒王陵57号
C類 地板+金銅板+鉄心金銅板・銀板巻透彫文様板縁金一体タイプ
味鄒王陵12号→造塔里3号2槨→皇吾里16号第1槨→天満1号墳→片山
馬越長火塚→風返稲荷山→田辺
D類 地板+鉄製文様板+金銅板・銀板被せタイプ
笊内37号・奉安塚・仁田山ノ崎A・らちめん・白石二子山
→放れ山・勝手野3号墳・的場2号墳・仁田山ノ崎B
E類 地板+金銅板+中空縁金
伝高霊池山洞→皇吾里16号第1槨→埼玉将軍山→才園2号墳→文堂
F類 透彫金銅板のみ(有機質地板を伴うものを含む)
沖ノ島C→双六→八幡観音塚→道上・しどめ→伝群馬県・法隆寺荘厳具→毛彫馬具
以上のうち、棘葉形杏葉を代表する藤ノ木古墳A例(B類)では地板鉄板上に、紋様を透彫し彫崩しも併用した銅板に鍍金を施したものを鋲留めしているが、賤機山古墳例(A2類)では紋様板の彫刻が更に立体的かつ流麗で、鉄芯に金銅板を着せた縁金を追加して鋲接されているとみられ、その精緻さは極致に達し、棘葉形杏葉の頂点に立つ作といえる。一方足利公園3(M)号墳例(A1類)では賤機山例と一見構造が似ているが、文様板はあらかじめ鍍金した薄い金銅板を切り抜いたもので印象は全く異なる。さらに埼玉将軍山(E類)では地板の構造・材質が不明だが、薄い金銅板を槌起し断面蒲鉾形の中空縁金で透彫文様を表現した杏葉が出土している。双六(F類)では厚い金銅板を打ち抜いて鍍金した大型杏葉が出土している。
ところが以上に挙げた古墳は、いずれも出土須恵器の大部分がTK43型式期のもので占められる点で一致し、これらA1・A2・B・E・F類の各々異なる技法の杏葉がほぼ同時期に製作されたことを示しており、より複雑な技術と簡略な技術が同時併存していることは明らかである。すると製作技法の相違は、各技術形式の系譜の相違ならびに技術複合の精粗による階層構造を暗示していると考えられる。一方朝鮮半島の例では、列島の例ほど極端な形状・製作技法の分化はみられない。すると編年にあたっては、各製作技法群ごとに分類した上で群内の相対的な先後関係を定め、それぞれの群を文様構成、組み合う鏡板やその他の馬具類の型式、共伴遺物や古墳構造の年代観などによって併行関係を整理する手続きを踏む必要がある。よって製作技法の精緻なものを舶載、その便化したものを国産としたり、特定の製作技法を特定の年代に比定する小野山・岡安氏の論はもはや過去のものとなったといえるが、笊内37号横穴墓例のD類に関してはどうであろうか。この種の技法は奉安塚・仁田山ノ崎A・らちめん・白石二子山・放れ山・勝手野3号・的場2号・仁田山ノ崎BなどTK209型式新相からTK217型式にかけての須恵器を共伴する古墳の出土品に限定され、TK43型式新相〜TK209型式中新相にかけての馬越長火塚・田辺・風返稲荷山などC類の意匠と型式学的に連続し、C類の鉄製文様板に金銅板を巻いて着せる技法が退化し、文様・地板鉄板の全面を1枚の金銅板で覆うかたちに簡略化して出現したもので(よって小野山氏や岡安氏がこれらを5世紀以来の在来槌起技法の復活と見ることは、的を得たものではない)、毛彫馬具につながるF類の新しい事例とともに仏教美術意匠と共通点が多く、また鏡板・杏葉の地板・文様板を共有するともづくり化が顕著であり、明確な技術の方向性を示している。すなわち仏教寺院造営の開始に伴う工人集団ならびに製作技法の再編・合理化を背景として出現したことが予測されるのである。なお、C類からD類に転換する年代については、奈良県広陵町牧野古墳から出土した2組の三葉立心葉形杏葉にそれぞれC類とD類の双方が採用されており、TK209型式古相の須恵器が共伴していること、この古墳が587〜600年頃没した押坂彦人大兄皇子の成相墓とみられる点が参考となる(広陵町教育委員会1987)。
棘葉形杏葉の出現と変遷過程
棘葉形杏葉は朝鮮半島南部域に原形があるが、その祖型の基点をどこに置くかはむずかしい。中国北朝から隋初の陶俑には列島の6世紀代の杏葉に類似する尻繋の表現がある。これらの形状の多くは日本でいう鐘形杏葉に相当するもので、なかでも河北省慈県北斉高潤墓(576年)では鐘形杏葉に斜格子状の文様までリアルに表現されており、山東省済南東八里窪南朝墓、東魏の河北省滋県東陳村1号趙胡仁墓(547年)・茹茹公主墓(550年)、華南省安陽北斉范粋墓(562年)にも類似の櫛形表現がある。(森1988)。しかしこれらの実物は全く見つかっていない。列島の古墳では杏葉を懸下した吊手金具のみが出土し、有機質の杏葉が想定される例がある。よって南北朝期の馬俑に表現された櫛形垂飾も金属製ではなく、布帛や染革製など有機質の可能性があり、後藤守一氏はこれらを「厚房」と呼び、色糸を束ねた房と推定した(後藤1942)。
なお山西省太原北斉婁叡墓(570年没)の馬俑には棘葉形杏葉に類似する表現があり、これは新羅慶州味鄒王陵地区4・5号墳出土の下端部が尖る杏葉と似ている。その系譜に連なるものは列島にも例があり、ウィリアム・ゴーランド氏が京都府亀岡市鹿谷古墳群でf字形鏡板付轡・剣菱形杏葉6とともに収集した棘車輪状透彫鏡板付轡(キャップ状金具・菊鋲を伴う。若林1900に彩色画あり)とおそらくセットで出土した五棘の小型杏葉で、写真より3点が確認できる。その形状はちょうど扁円剣菱形杏葉の剣菱部だけを独立させたような形状を示している(上田校註・監修1981)。ただしこれらの杏葉は、遅くとも6世紀中葉には収まると考えられるので、6世紀後半の婁叡墓のものを原型としたわけではない。
以上は半島・列島の祖型と考えるにはやや難のあるところだが、現在の知見によるかぎりは、棘葉形杏葉は、朝鮮半島南部の扁円魚尾形杏葉を原型とし、扁円部の退化と魚尾部の発達の過程で6世紀前半代に成立したとみられ、新羅・伽耶域に例がある。魚尾形の系統と精美型式の棘葉形は新羅慶州壺杆塚の段階で交代し、新羅慶州鶏林路14号墳や伽耶伝高霊池山洞例がやや古く林石杜邱洞5号墳・新羅慶州皇南洞151号・皇吾里16号墳例がやや新しいようだが、いずれも6世紀第2〜3四半期を前後する時期と思われる。列島では壺杆塚とほぼ同じ構造のものが福岡県宗像市沖ノ島7号遺跡や栃木県足利市明神山1号墳、福岡県前原市多久口木2号で出土しており、うち多久口木2号はTK10〜MT85期頃の須恵器を伴うため、この時期に半島製の棘葉形杏葉の導入が開始されたと考えられる。
しかし沖ノ島Aの卓越した出来栄えに見るごとく、精美型式の棘葉形は突然形成され、その成立に外来要素が加わった可能性がある。セットをなす心葉形十字文鏡板付轡は原形が高句麗域に見られること、鏡板外側に二条線引手を伴う構造は4〜5世紀の鮮卑・高句麗系轡に由来すること、初期の型式を出土した壺杆塚や鶏林路14号墳が北方系文物を共伴している点から、高句麗や北朝の影響が推測される。愛知県名古屋市熱田神宮蔵品は鉄製三連銜を伴う特異な銅製鍍金の小型心葉形十字文鏡板の形状・法量が、韓国ソウル市峨嵯山4号堡塁出土の鉄製十字文鏡板文様板とよく似ているため、セットをなす埋め殺し鋲を伴う棘葉形杏葉4点とともに舶載品の可能性が高いと考えられる。峨嵯山は475年以降の5世紀後半〜6世紀にかけての高句麗の前線基地と見られているため、その原型は高句麗以北に存在する可能性がある。
では、列島での製作開始がいつか問題となるが、ここで鉄芯をもたない金銅板打出中空文様板の事例に注目しよう。新羅慶州の皇吾洞16号墳第1槨では、中空縁金および文様一体の三棘杏葉が半球形四脚辻金具やW字形銜留付環状鏡板付轡と共伴している。このセットと同じ技法と類似する意匠で製作されたのが埼玉県行田市埼玉将軍山古墳の七棘杏葉・辻金具で、これに後続するものが熊本県免田町才園2号墳で出土している。また足利公園3号墳でも形式不明の轡とともに縁金が中空構造で猪目・忍冬唐草文の透かし彫り文様板を挟み込む5棘杏葉が出土しており、透彫文様の意匠は沖ノ島Aや群馬県高崎市綿貫観音山古墳に近い。これらは舶載から国産に転換する移行期の様相を示していると推定され、埼玉将軍山はTK43古段階の、足利公園3号もTK43新段階の須恵器を伴っており、6世紀第4四半期頃、国産が開始されたと考えられる。沖ノ島Aの立聞金具・菊鋲を受け継ぐ熊本県熊本市打越稲荷山は舶載か列島産か判断が難しいが、TK43期頃の副葬とみられる三重県伊勢神宮蔵品や奈良県斑鳩町藤ノ木古墳、静岡県静岡市賤機山古墳などは製作技法・形状とも大陸・半島に類品が見られず、列島で製作された可能性が高いと判断される。安易な舶載説には何ら説得力がない。
なお受容段階の棘葉形杏葉は、例外なく十字文心葉形鏡板付轡と組み合っているだけでなく、意匠や技法を共有する心葉形鏡板・杏葉が常に存在する点で一貫しており、これらは両者がしばしば同一工房で製作されたことを窺わせる。心葉形杏葉・鏡板は類例が多く共伴遺物の年代が判明する例も少なくないので、比較検討は系譜・年代推定の上で有効である。
壺杆塚Aや沖ノ島Bは立聞直下から垂下する二股蕨手文が文様中央上寄りのハート形透に接し、縁金具に密な鋲打ちを施す構成が伽耶昌寧校洞7号墳の心葉形杏葉に通じる。新羅慶州銀冠塚にも同様な要素が見られ、慶州天馬塚の心葉形杏葉の文様に類似する。
壺杆塚Bは中央に縦長のアーモンド形の透文があり、両脇に各5本ずつ蕨手文が派生する。これに類似する構成は福岡県宇美町正籠3号墳の楕円形十字文鏡板付轡に伴う心葉形杏葉に見られ、縦長アーモンド形透文部や縁金の密な鋲打もよく似ている。この古墳では鉄製輪鐙、捩複素環轡、辻金具などの馬具とともにMT15型式の須恵器が出土している。
沖ノ島Aに見る向かい合った蕨手表現の重なりにみられる菱形透は井田川茶臼山(MT15〜TK10)の心葉形杏葉に類似する。向かい合った蕨手表現が下の尖る桃形蕨手文と組み合う例は宮崎県高鍋町持田56号墳にみられ、文様の要に菊鋲を打つ点も共通する。
熱田神宮杏葉内部文様の上半分に見る心葉形を形づくる向かい合った蕨手の中央に剣先形を垂下させ三葉文とする意匠は大阪府茨木市海北塚Aセット(後藤1941)・岐阜県各務原市大牧1号例と類似し、後続する湖巖美術館所蔵、金東鉉コレクションの伝高霊池山洞の二重心葉意匠の杏葉にも見られ、縁金の鋲打ちがまばらでなおかつ埋め殺しがなされている点はこちらに近い。この杏葉類は、立聞と同幅の金具に責金具を介して大きい菊鋲を一つ打つ(湖巖美術館1997)。また福岡県八女市岩戸山古墳別区の石馬尻繋に表現された杏葉(森1974)と似ている。なお岩戸山では、胸繋に5個の大型馬鐸が表現されているが、これを大型棘葉形杏葉3個に置き換えると、それはまさに伝高霊池山洞のセットとなる。石馬の年代を筑紫君磐井の没年とされる527年前後に置くと、金冠を共伴し大伽耶王陵の副葬品と目される池山洞例は、大伽耶が新羅に投降した532年前後から、滅亡する562年を降らないと考えられる。
熱田神宮杏葉の下半分の向かい合った連続蕨手文と猪目に近い蕨手文から下に垂下するありかたは天馬塚の心葉形杏葉にみられる。また、すれちがい蕨手文や縦に垂下する直線は伽耶大邸飛山洞37号や伝高霊出土一括品の心葉形杏葉にも見られる。