第1章 文化財センター以前
1 福島県の発掘調査
本県では昭和41年以前は、埋蔵文化財に対する発掘調査は年に数度行われていたに過ぎず、それも、主に県内在住の考古学研究者の手によって小規模に行われていた程度であった。
ところが、昭和41年の東北縦貫自動車道、同47年の東北新幹線敷設工事を契機として、開発に伴う埋蔵文化財の調査が大規模なものとなった。この2つの大規模開発に伴う発掘調査についてはそれまでとは違い、東北縦貫自動車道は県教育委員会が主体となり多数の民間考古学者の協力を得ながら調査が行われ、東北新幹線は県教育委員会がそのための体制を別途整えて調査を行った。その間、昭和47年には県教育庁内に文化課が新設された。
2 福島県文化センター遺跡調査課
その後、県南部の2市1町3ヵ村にまたがる国営総合農地開発事業母畑地区の開発事業が促進され、埋蔵文化財保護行政の強化が強く望まれるようになった。これに対応するために、昭和52年4月、県文化センター事業第二部に遺跡調査課を設置した。発足当初の職員数は計4名である。
遺跡調査課の業務は、県教育委員会からの委託を受けて開発に伴う遺跡の発掘調査とその整理・報告書作成である。遺跡調査課で行う発掘調査は、大学などによる研究を目的として行われる学術調査とは異なり、開発事業と埋蔵文化財の保護が円滑に行われるように進められるものである。
遺跡調査課で行う調査には分布調査(表面調査,試掘調査)と発掘調査があり、分布調査によって開発事業の予定地内にある遺跡の数・位置・面積などを把握し、開発工事の計画上、遺跡の現状保存ができない場合に発掘調査を行う。発掘調査では、図面・写真などの詳細な記録を作成して後世に残し,遺跡は調査終了後には、工事により掘削されて消失することになる。
現地での発掘調査の後、調査で得られた記録類をもとに資料の整理が行われ、成果は報告書としてまとめられる。こうして出来あがった調査報告書が開発などで消失した遺跡の代わりとなり、記録によって遺跡が保存されることになる。同時に、出土資料や記録類も収蔵・保管されることによって遺跡の記録保存が完了する。そして、土器・石器などの出土遺物のうち完形品や接合等の修復を行い復原できたものは、展示などを通して一般に公開する。
遺跡調査課での発掘調査事業は昭和52年度以降、年ごとに増加する開発事業に対応するために増加の一途をたどり、それに伴って職員も年々増員された。
遺跡調査課で実施した主な事業には、課新設の契機となった国営総合農地開発事業母畑地区があり、大規模古墳群である笊内古墳群全体が調査された。また、国営総合農地開発事業矢吹地区・国営会津農業水利事業などの農業基盤整備に関わる調査、真野ダム関連・三春ダム関連・摺上川ダム関連などのダム建設に関するもの、東北横断自動車道関連・常磐自動車道関連・あぶくま南道路関連などの道路建設関係の調査が行われ、それぞれ多くの調査成果があり、相馬開発関連・原町火力発電所関連などの工業団地造成や火力発電所建設に関わる調査では、浜通り地方北部を中心とする一大製鉄遺跡群が調査されたことは記憶に新しい。遺跡調査課は、これらの大規模な発掘調査事業に20年以上にわたって対応して来たことになる。
その結果、それらの調査に伴う出土文化財も年々増加し、収蔵・保管施設が不足した状態が続き、また、事業量の増大に伴い人員の増加が図られ、施設は肥大・分散化の方向に進んだ。ここ数年は、福島市内5ヵ所に分散して、資料の整理調査、収蔵・保管を余儀なくされ、業務の円滑な遂行及び、出土文化財の公開等が困難になるとともに、さらに増加が見込まれる出土文化財の収蔵は限界に達した状態で、これ以降は収蔵庫が大幅に不足するのは目に見えていた。
人員も平成11年度には合計67名の体制となり、他県でもあまり例を見ない大規模な組織となっていた。
3 文化財センター建設への期待
前述のように、昭和52年度、大規模開発事業に係る発掘調査に対応するために、財団法人福島県文化センターに遺跡調査課を設置したが、その後も開発事業に伴う発掘調査の増加は続き、施設・設備等が不足する事態が生じてきた。
このような状況の改善と埋蔵文化財等保護体制の充実を図るために、早急な文化財センターの整備が望まれた。県教育委員会はその整備事業を進めることとし、平成6年度に、福島県文化財保護審議会からの「福島県文化財センター(仮称)整備基本構想報告書」を受け、その具体的内容について検討を進めてきた。
原町市大船さくA遺跡の調査 磐梯町法正尻遺跡の調査 矢吹町弘法山古墳群の調査 遺跡調査課山下町分室 報告書刊行にむけた整理作業