7 奈良時代竪穴住居跡の復元

 奈良時代になると、この地域でも集落から多くの鉄器が出土する。農耕具や武器の類である。また掘立柱建物も急速に普及し、寺院や官衙では瓦葺き建物も造られるようになる。このことは、竪穴住居の建築技術や構造にも大きな影響を与えることになった。柱組には各種のホゾが使用され、尺度を用いた建築方法が普及していったと推定される。竪穴住居跡の外形や柱組が結びついて整った矩形となるのも、このような技術が確立された結果である。
 竪穴住居は、古墳時代にカマドが導入されて以降、試行錯誤を経て栗囲式期になると、貯蔵穴や主柱穴カマドの位置が安定するようになる。古墳時代の竪穴住居とは、主柱穴の掘形が大きくなること、壁柱穴の普及が大きく異なっている。主柱は、掘立柱建物の柱穴と同様に大きな掘形の中に柱を据える構造となる。古墳時代では、柱掘形と柱根の直径はほとんど同じであった。竪穴住居の屋根を主柱構造で支える要素がより強化されるように改良された結果である。
 これとともに、大型竪穴住居跡を中心に壁柱が設けられるようになる。壁柱は主柱よりは細い材が使用されているが、古墳時代の竪穴住居主柱と同程度はある。これに桁を回して主柱の桁廻りと合わせて垂木を配置すれば、地表に立ち壁を巡らすことが可能になる。古墳時代の竪穴住居が土屋根であったのに対して、大きな相違といえよう。壁柱の出現は竪穴住居が長い役割を終え、平地式住居が普及する上で大きな要素である。
 奈良・平安時代の竪穴住居跡は、主柱の数と配置場所から大きく4種類に分けることができる。
。緩榁譴掘形の中央に配置されるもの。
■緩榁譴如△修里Δ舛裡暇椶側壁線上に造られるもの。
C┠蟒撒錣亮汗上に2本柱の主柱穴が配置されるもの。
ぜ臙譴里覆い發痢
 このうちは、柱を結ぶ直線がカマドの軸線と直交する小野町堂田遺跡例と平行する須賀川市沼平6号竪穴住居跡がある。またい里覆には少数ではあるが壁柱のある例がある。沼平13号竪穴住居跡である。
 白河館には、東村谷地前C27号竪穴住居跡が図7の復元案2で復元されている。この竪穴住居跡は、主柱の抜き取り跡から少なくとも1回以上の建て替えが推定され、西壁を部分も隅柱が近接していることから、この部分を中心に造り替えが行われた可能性が高い。
 遺存している壁柱も、最終段階の柱穴に加えて建て替え前の壁柱穴が含まれていると推定されよう。西壁側に拡張されたと推定されるので、西壁溝から検出されたP17は、拡張以前の柱穴の可能性があり、P16も二つの柱穴が重なってみえる。P27も同様に建て替え前の壁であろうか。これらを除く壁柱穴が最終段階に機能していたと判断できる。竪穴住居跡北西隅のP20とP21、南西隅のP14とP15が近接して造られているのも、側壁が西側に広げられたことの影響であろう。本来はそれぞれ1個の柱で十分である。
カマドの脇にあるP23とP24は、他の竪穴住居跡でも同様な位置に造られている例が多いことから、カマドに伴う支柱と推定される。防火板あるいは棚状施設の支えであろうか。他の壁柱は、壁の支柱であると推定される。支柱間に木舞を縦横に組んでこれに樹皮や茅を編み込めば壁ができる。壁の高さは、推定するしかないが、形態的に古墳時代と大きな変化がなければ、埴輪に表現された壁持ち家などが参考になるであろう。床面から梁行・桁行まではおおよそ2m程度として、北側で壁高さの遺存値が0.7mこれに表土と周堤壁の高さを0.5mとすれば、壁の高さは0.8m程度であろうか。いずれにしても推測でしかない。
 竪穴住居の上部構造を考える上では、カマドと反対側に造られたP26の理解が大きく関わる。復元された竪穴住居では、棟持ち柱が想定されている。この結果から屋根はカマド側が寄棟、P26側が入母屋造りとなっている。これに類似した形の復元屋根は、平出3号竪穴住居跡で復元(平出調査会編1955)されている。ただしこの竪穴住居跡は4本主柱で、このうち2主柱は壁線上に設けられた型式である。

図7 谷地前C27号竪穴住居跡復元案

 棟持ち柱は、縄文時代からの伝統的な建築構造のひとつで、弥生時代以降は、集落の中心的な建物、古墳時代では居館の主殿などで格調高い建物に使用される構造様式である。ところが7世紀代以降、集落や居館から棟持ち柱構造は急速にみられなくなる。寺院・官衙建設に伴う建築技術が、一般集落の建物建築にも影響を与えた結果である。
 白河館のように、中型竪穴住居でしかも片側のみというのは、棟持ち柱構造の性格からみれば、かなり特殊な理由を想定しなければならないであろう。この程度の竪穴住居であれば棟木を支えるのは扠首構造でも可能であるし、梁に束木を設けることでもできる。茅葺き屋根を貫く棟持ち柱は、雨漏りの可能性が高くなるなど、不都合な要素である。床面から柱を立てる必要はない。またその場所も出入口に相当する場所である。通路の支障にもなる。
 P26が検出された位置は、第5ピットとも呼ばれ、古墳時代以来に竪穴住居の出入口が想定されている場所(谷島一馬1979)である。茨城県うぐいす平66号竪穴住居跡(茨城県教育委員会1994)では、この場所から木柱に階段が設けられた遺構が検出されている。また矢吹町後原2号竪穴住居跡(福島県教育委員会2001)からは同じく梯子状の出入口が検出されている。P26は、棟持ち柱ではなく、出入口施設の柱階段の柱穴である。復元にさいいて、P26が出入口施設の可能性も考慮はされた(福島県文化財センター白河館2001)が、これが採用されなかった理由は明示されていない。
 以上から谷地前27号竪穴住居跡は、4本主柱で復元しなくてはならない遺構であるといえよう。この竪穴住居跡の主柱穴は、竪穴住居四隅を結ぶ対角線上に位置し、外形の矩形と相似形に配置されている。また外形の四壁も2壁が直角で相対している。柱筋と外形が正確な矩形を成していることは、これらを結ぶ梁・桁・束・垂木がホゾや欠きなどの各種木工技術によって造られたことの反映である。奈良時代になれば、基本的な鉄製建築工具が普及していたことから、近代の通常的な農家に近い建物構造を造ることも可能と考えられる。
 竪穴住居の四壁は、壁溝と要所に配置された支柱から、柱間に板材を並べこれを支柱で安定させる周堤壁と考えられる。この板壁が、地表部にもそのまま続く構造であろうか。あるいは、地表部ではさらに茅や樹皮を押し付けて補強を加えることも可能である。ただ土壁ではなかったらしい。スサ入り粘土が出土した例はない。また板壁・草壁であれば、支柱間の要所を窓とすることも、比較的容易に可能である。P19やP6付近がその可能性が高い。
 カマドの左右にある柱穴は、カマドの防火施設の一部と考えられる痕跡である。カマドの両脇からは、この種の柱穴を検出することも少なくない。カマドからの横焼けや火の粉を防ぐには、板壁に泥土を塗りつける方法や火伏せ棚を設ける等の方法が考えられる。
 このような柱構造・壁を踏まえて屋根を推定すると、茅葺きの扠首構造で入母屋造りが最も可能性が高いのではないだろうか。家形埴輪にもある屋根である。家の主軸は、出入口からカマドとして、この方向で煙出し窓が設けられていたのであろう。カマド上から最も煙出しが排出しやすい位置(都出1989)である。出入口とその上に煙出し窓が、しかも南向きに造られていれば、採光の点でも有効である。
 また谷地前27号竪穴住居跡と平出3号竪穴住居跡の平面規模と柱位置は、極めて近似した特徴を持っている。そこで、平出3号竪穴住居跡を基に藤島亥二郎が復元した上屋と合成して復元したのが復元案1である。あるいは登呂遺跡復元案(日本考古学協会編1949)のように、桁廻りで屋根を上下に分割する案も可能であろう。以上から谷地前27号竪穴住居跡は、主柱4本入母屋造り立ち壁で、茅葺きあるいは板葺きの竪穴住居という復元案を考えておきたい。
 図7の復元案1と復元案2、最も異なる点はP26の理解である。これひとつの違いで、復元される竪穴住居の構造と形態は大きく異なることになる。このほか、垂木に孟宗竹が使用されている点に、少し違和感が生じるかもしれない。孟宗竹は江戸時代に普及した外来種で、奈良時代の阿武隈川上流域には存在していた根拠は十分ではない。また木舞は、1本ではなく、細い材を2本合わせて使用すると相互の反発によって茅の緩みを防止するのに役立たせることも出来る。

8 馬場前86号竪穴住居跡の生活空間

図8 楢葉町馬場前86号竪穴住居跡

 竪穴住居での生活を考える上で基本となるのは、建物の空間と施設配置であり、生活に伴う居住者の動きである。これを踏まえて、馬場前86号竪穴住居跡を例に竪穴住居の生活空間について考えてみることにする。先節で述べたように、この竪穴住居跡は、火災によって廃棄されたと考えられる検出状況を遺存していた。しかも竪穴住居跡の堆積土は、その後に攪乱を受けた痕跡は見られなかった。竪穴住居跡から出土した遺物は、火災直前に竪穴住居内部に置かれていた場所を反映した位置にあると考えられよう。
 火災をうけて廃絶した竪穴住居については、出土遺物が少ないことから人為的な廃棄行為であるという指摘がある。住居に火をつけて廃棄する行為がないとは限らないが、これはむしろ異常な処理方法ではないだろうか。犯罪に対する処罰や忌避の対象などの場合も推定されよう。集落のなかで住居を焼き払う行為は異常であり、他の施設に引火することもある。薪が多量に必要なことは縄文時代も古墳時代も変わりはない。古屋は絶好の薪材である。これが利用されないはずはない。
 また季節による竪穴住居と平地住居の棲み分けが、黒井峯遺跡などの調査を踏まえて強調されている。しかし夏期に竪穴住居で住まなくなったとしても、それが廃屋になった訳ではない。竪穴住居の内部で火焚きを中止すれば、急激な劣化が進行することは多くの事例で明らかである。最小限でも維持管理の作業は必要である。それに、夏期には日中の酷暑を竪穴住居の内部で緩和することも可能である。
 86号竪穴住居跡は5本柱式の複式炉が設けられている。規模は直径約6mである。主柱穴と複式炉前庭部を結ぶ範囲では、床面に踏み締まり痕が遺っていた。これに対して前庭部を除く壁周辺には、踏み締まり痕が不明瞭となっていた。複式炉前庭部が壁と接して踏み締まっていたことは、この部分が竪穴住居の出入口と直結していたことを示している。また複式炉を中心に主柱穴で囲まれた範囲が、土間として利用されていたことを意味している。
 柱aの奥には段状の高まりが設けられていた。同様な施設は馬場前106号竪穴住居痕跡でも検出されている。この場所には土壇の代わりに石壇状の施設が設けられる場所でもある。三春町仲平2号竪穴住居跡(3次)では、長方形土坑の短辺側に板材を据えて段とした遺構が検出されている。この場所からは、宗教的器物と考えられる石棒・石柱などが出土すること、あるいはこれを据えたような痕跡が検出されることから、祭祀関連遺構と考えられている。能登谷宣康は、山本輝久や飯島吉晴などの指摘を受けて、家神祭祀的な施設を想定(能登谷1993)している。
 86号竪穴住居跡ではこの段状施設の前面に土器や磨石が集中して出土している。床面に散在して出土し、置き据えられた状況ではない。土器は、小型土器と破片である。また棚から落下したとも考えられない状況である。出土床面は、踏み締まり痕が形成されていた部分である。これに対して段状施設の平面から、遺物は出土していない。これに近接して柱b2の奥側からは石匙と磨製石斧頭が出土している。磨製石斧頭に柄をつけて、柱や屋根裏に吊すことも可能である。柱c2の北側からは磨石類が3点出土している。確かに祭壇と理解することも可能であるが、祭祀を証明することは困難である。少なくとも、この付近に道具類が置かれていたことの反映である。それが日常的な道具類であれば、この場所が聖所と限定する必要もないであろう。      
 竪穴住居跡の前半部では、柱c1の北側から有機質の袋状入れ物に納められていたと推定される剥片34点、それに石核と叩き石が出土している。これは吊り下げられていたのであろうか。このほか付近からは、礫と土器片が出土している。また柱b1の奥側からも礫と土器片が出土している。
 剥片が袋状の入れ物から出土した例は、福島市獅子内68号土坑などが知られている。また越田和3号建物跡では、土器の中に納められていた。剥片石器類は、土器や袋に納めて保管されていたのであろうか。同115a号竪穴住居跡では、床面上の堆積土中から石鏃と剥片が22点ほど出土している。これも同様である。これに対して、同113号竪穴住居跡では前庭部の右側から剥片が出土している。この剥片は大半が自然面を残しているので、廃棄する剥片が集められていた可能性もある。しかし目的を限定する根拠は乏しい。柱b1と柱b2、柱c1と柱c2に挟まれた部分は、遺物が出土しない空間である。この部分が休息空間であろうか。これに近接して道具や石器材料が保管されていたのであろう。
 前庭部は出入口に近接し、複式炉の火焚き場と推定される場所であり、これに近接して薪が置かれていたと考えられよう。前庭部の左右どちらかである。しかし他の竪穴住居跡では、この部分から石器や土器が出土しているので、用途が固定していたわけではない。
 複式炉は、土器埋設部と石囲部、それに前庭部で構成されている。前庭部は石囲部の火を管理する場所であり、土器埋設部は炭火を入れる施設と考えられている。炎と炭火という2種類の火を管理する施設である。火の違いに合わせて各種の生活に役立てたのであろう。炎を上げる火は、竪穴住居の明かりであり、竪穴住居全体を保温することになる。煙は、住居を薫蒸するとともに、食品や獣皮の加工に役立った。土器埋設部は、いわば火鉢である。種火を確保して、調理や各種の熱加工等にも利用することができる。
 86号竪穴住居跡では設けられていないが、前庭部に埋設土器が設置された例も知られている。能登谷宣康の分析(能登谷1993)によれば、埋設土器は開口しているもの、蓋をした例が知られているという。火熱を受けた痕跡もないらしい。また内部は空洞になっていた可能性もある。前庭部の床面下に土器全体が密閉して埋められていたのではないらしい。開閉が可能で内部が空洞であれば、火焚き場に附属させて、小物置場としても利用できるのではないだろうか。祭祀・宗教関連施設の可能性もあるが、実用的な用途を探って行くことを積み重ねておきたい。
 86号竪穴住居跡の床面利用を以上のように推定すると、休息・睡眠場所は複式炉の左右が想定され、この部分の広さから成人2名程度の居住が想定されよう。子供などはこれに付随して居住しても、大きな問題はないであろう。この時期の竪穴住居は、家族に類する集団の居住施設であるといえよう。このように考えると竪穴住居の規模は、単純に居住人数を反映しているというよりは、居住者の生活にも規制されることになる。

お わ り に

 竪穴住居跡の発掘調査は、基礎構造を明らかにするとともに、失われた上部構造の痕跡をより多く集めることである。そうして、遺構の形状、構造を復元し、そこに居住した祖先の生活を復元することである。さらにこれらを遺跡のなかにおくことにより、集落全体の景観を復元することである。単に調査結果の遺構の差異を分析するのではなく、復元的視点で考古資料を集めることが求められているのである。集落の様子が復元されれば、そこでの生活をより具体的に追体験することもできよう。
 遺跡公園や博物館に復元された竪穴住居は、竪穴住居跡に上屋が架けられた構築物である。内部には各種の生活用具が並べられていることも少なくない。柱、壁、屋根、敷物が復元され、土器、各種の道具類、薪等が置かれている。あるいは、そこで食べ物が調理され、衣服が架けてあったりもする。竪穴住居とそこに居住した人々の生活が再現されているのである。こうして専門家以外の人々も、祖先の生活を追体験することができるようになる。そのようなことを願って、竪穴住居跡の調査方法を整理してみた。
 小論は、当館が実施している文化財研修の一環として、竪穴住居調査研修の資料として作成した。その資料収集では、下記の機関、個人から数多くの教示を受けた。また研修参加者からも多くの貴重な意見をいただきました。
 群馬県渋川市教育委員会 静岡市登呂博物館 富山市教育委員会
 浅野 毅  大谷 明伸  小林 良光  藤田 富士夫 麻柄 一志
 村本周三(総合研究大学院大学院生)

 <参考文献>
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福島県教育委員会1990a「上ノ台A遺跡第2次」『福島県文化財調査報告』第230集
福島県教育委員会1990b「春田遺跡」『福島県文化財調査報告』第235集
福島県教育委員会1991a「法正尻遺跡」『福島県文化財調査報告』第243集
福島県教育委員会1991b「仲平遺跡(第3次)」『福島県文化財調査報告』第254集
福島県教育委員会1991c「鹿島遺跡」『福島県文化財調査報告』第266集
福島県教育委員会1993「四合内B遺跡」『福島県文化財調査報告』第289集
福島県教育委員会1996「越田和遺跡」『福島県文化財調査報告』第322集
福島県教育委員会2001「後原遺跡」『福島県文化財調査報告』第370集
福島県教育委員会2002a「馬場前遺跡1次調査」『福島県文化財調査報告』第388集
福島県教育委員会2002b「前山A遺跡」『福島県文化財調査報告』第389集
福島県教育委員会2003「馬場前遺跡2・3次調査」『福島県文化財調査報告』第398集
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宮本長二郎1996『日本原始古代の住居建築』中央公論美術出版社
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復元的視点による竪穴住居跡の発掘調査