5 複式炉を持つ竪穴住居跡の変化

 前節で示した竪穴住居跡を構成する土層や土層相対変化表を基に、竪穴住居跡から竪穴住居を復元してみることにする。その具体例として、縄文時代中期後半の複式炉を持つ竪穴住居跡と奈良時代の竪穴住居跡を具体例とした。この時期の竪穴住居が白河館に復元されており、これと合わせて竪穴住居の発掘調査研修が可能と考えたからである。
 まず復元に先立って、複式炉を持つ竪穴住居跡の変遷を概観しておく。複式炉のある竪穴住居跡の平面企画については、3本柱と4本柱の主柱が知られていた。これをもとに目黒吉明によって、浮桁構造の竪穴住居が考え(目黒1978)られ、現実に復元もされている。また飯舘村上ノ台A遺跡の調査(福島県教育委員会1990a)から山内幹夫は、複式炉主軸線上に柱穴間の中点と想定竪穴住居外形線の中心を見出し、この偏差を求めて竪穴住居跡の変化を追究することを試みた。
 さらに1984年、福島県立博物館による塩沢A遺跡の調査では、2個の埋設土器を持つ複式炉が設置された竪穴住居跡の構築原則として、つぎの5点(福島県立博物館1985)が指摘されている。
|┠蟒撒鐇彝扱舛紡弍する想定円とその中心に複式炉の埋設土器Aが重なること。
∀Г亮膽瓦魴萃蠅桂篝濺擺錚舛卜拈椶靴橡篝濺擺錚造鮨える。
OГ亮膽汗上で埋設土器Bを通る直線上に側柱穴(主柱穴)が設けられる。
ぢγ豬蠅話┠蟒撒錣亮溝から一定の距離がある。
ヂγ豬蟯屬竜離の1/2が、石組部+石囲部の最大長さとなる。
 この案では、報告書でいう側柱穴(通常は主柱)を結ぶ多角形と竪穴住居外形の間に整合性を認めることは難しい。これは奥壁側の主柱穴についての検討がなされていないこと、前庭部側の柱穴を主柱穴とした認識に問題があった結果である。
 塩沢A遺跡の成果を踏まえて森幸彦は、法正尻遺跡の資料からつぎの4点(森1993)を指摘した。
―撒鏗扱舛榔澤舛魎霙瓦箸掘円の中心は炉の中軸線上で炉の埋設土器頂部、あるいはこれより軸頂よりにある。
∀Г亮膽瓦鮹羶瓦忘険β仂里紡γ豬蠅ある。側柱穴は炉の燃焼施設上を横断する線上に配置される。
軸頂柱穴あるいは軸頂対柱穴を有し、大木9新式(森編年)では住居プランに沿った柱穴配置がなされ、大木10古式では主柱穴は3本あるいは4本構造をとる。
ぜ臙豬蠻枌屬麓環座Δ暴乎罎掘⊆環貘Δ砲楼貭蠅靴臣豬蠻枌屬認められない。
 森の指摘は、塩沢A遺跡の認識をより発展させたといえようが、主柱穴の位置、個数の理解に不十分な点がある。以下で述べるように、複式炉が完成する大木9式期の竪穴住居は7本の主柱構造である。前庭部側の柱穴は、複式炉主軸線と直交する位置にあり、大木9式期は石囲部にあるが、大木10式になると、次第に土器埋設部の上を通るように変化するようになる。さらに、時間変化も考えられていない。
 近年、楢葉町馬場前遺跡の調査成果(福島県教育委員会2002a・2003)から、坂田由紀子による竪穴住居跡の企画案に対する研究(坂田2003)が発表されている。馬場前遺跡の竪穴住居跡外形は、円形というよりは楕円形を基調としている点、外形線に凹凸があることに注目した平面企画案である。さらに基準尺の検討も合わせて、竪穴住居跡を17群に細分している。ただ坂田の案では、基点となるA点、B点の根拠、竪穴外形線の求め方が複雑である。また主柱穴と竪穴住居跡外形と複式炉の位置が必ずしも結びついているとは限らないようである。
しかしこれまでの研究からは、竪穴住居外形・主柱穴と複式炉の配置が結びついた何らかの建築企画が存在していたことを伺い知ることができる。したがって、この関係を明らかにすること、そしてこの種の竪穴住居の出現から衰退までの変化を追い、共通する築造原則と変化を明らかにすることが対象に復元を考える前提作業となる。
 福島県地域で複式炉の原型が出現する時期は、大木8b式期である。猪苗代町法正尻遺跡(福島県教育委員会1991a)と富岡町前山A遺跡(福島県教育委員会2002b)で良好な資料が知られている。法正尻90号竪穴住居跡は、長さ7.7m、幅6.4mで、円形を基調としているが、少し楕円形になっている。この主軸に合わせて、石囲炉とそれに前庭部を設けた炉が設けられている。つまり、竪穴住居の外郭線主軸方位と石囲炉・前庭部の主軸線は重なっている。石囲炉は楕円形に小石を並べたものである。前庭部はこの石囲炉の手前から竪穴住居掘形に開くように造られている。これを原複式炉としておく。
 説明の都合上ここでは、複式炉の前庭部から石囲炉に向かう方向を奥側、反対側を手前側という方向で呼ぶことにする。主柱穴の呼び方は、主軸線の左側を柱穴b列、右側を柱穴c列とする。最も手前にある左側の柱穴を柱穴b1とし、奥に行くにしたがってb2,b3とする。右側も同様である。
 法正尻90号竪穴住居跡の主柱穴は、合計8基で構成されている。この竪穴住居跡の主柱穴は、原複式炉主軸線の延長を基軸として配置されている。また住居掘形の中点を同じくする同心円上に配置されている。最も南側の主柱穴b1とc1は、前庭部の奥側で主軸線と垂直に交差する直線上の左右、前庭部の端に当たる位置に造られている。つぎに石囲炉の奥側で、主軸と直交する直線に対応した左右に主柱穴b2とc2がある。さらに複式炉の奥端から主軸線にそって、複式炉の長さ近く奥側にも同様の位置、主柱穴b3とc3が設けられている。最も奥側にある柱穴は、柱穴の配置図上で柱穴の配置、主軸線と直交した線上の左右に設けられている。
 主軸線の中心点を基点として、竪穴住居側壁下端に合わせた長さを半径として、円を描いてみた。右側円弧線が竪穴住居跡掘形の外を巡り、左側手前で内側を巡っているが、その他は円線に合っているように見える。このように、主軸線上で、掘形外形と重なるような円の中心を0点とする。またこの0点は、主柱穴を結ぶ八角形の中心ともほぼ重なっている。
 この竪穴住居跡は、竪穴住居と複式炉の主軸を合わせて造られ、竪穴住居の外形は0点を中心に円形を描く線を基調に、これより少し細長くなっていた。主柱は8基で構成され、掘形外形線に対応した形態で、主軸線の左右に4基ずつ配置されている。このような住居跡は、大木8b式期から大木9式期の前半にかけて、東北地方中・南部を中心に分布していた。複式炉の出現にさいして、前庭部が先に設けられる点に注意したい。
 大木8a式期には、楕円形石囲炉の内部に土器が据えられていたことから、これが発展して複式炉が出現すると考えられていたが、土器の付設は一時途絶えるようである。ただし、後に土器が埋設される位置には、前山A7号竪穴住居跡などで、焼土面が形成されている。また石囲による小さな区画が設けられることもある。
 大木9式期になると土器埋設部、石囲部、前庭部で構成される本格的な複式炉が出現する。全体の形状は、土器埋設部を頂点に前庭部が開く扇形である。埋設される土器は、1〜3個で、なかには4個以上の例もある。石囲部は小さな平石を貼石の手法で造る特徴がある。主柱穴は7個で構成されている。7本柱式である。
 法正尻66号竪穴住居跡を見ていこう。この竪穴住居跡は、直径8.4mの円形である。竪穴住居跡内部の重複関係ではSK396は、この遺構より新しいとされている。これと重複してP8が検出されているが、これは他の主柱穴より直径が明らかに小さい。またSK396の深さは100cmで、P8は107cmである。SK396の掘り下げ後に検出されたとすれば、66号竪穴住居跡との結びつきも、不確定な要素が残る。P9も、P4とP5より古い遺構である。少なくとも最終段階の主柱穴からは除かれよう。P20とP26は深さから主柱穴として報告されている。しかし、P5で検出されている柱痕の直径が50cm程度であるのと比べると、明らかに小さく、主柱というよりは補助柱と考えるべきである。またP24とP29は竪穴住居の上屋構造とは結びつかない位置にある。
 以上を除外して、66号竪穴住居跡の柱穴配置と想定竪穴外形を求めたのが図2である。複式炉の主軸を求め、これを奥端側へ真っ直ぐに伸ばすと、主柱穴が設けられている。これを柱aとする。また石囲部で主軸に直交させた直線の左右には柱b1と柱c1が配置されている。この両主柱穴から柱aに向かって弧を描くように、また主軸線に対応させて柱b2、b3、c2、c3が配置されている。

図5 複式炉竪穴住居跡平面企画変化

 つぎに複式炉の主軸線に沿って竪穴住居掘形を分割する直線を設け、柱b2と柱c2を結ぶ直線を引くと、両直線は直交する。この交点0点となっている。これを中心に周壁直下までの距離を半径として円を描くと、竪穴住居跡の周溝とこの円がほぼ合致することになる。さらに同じく0点を中心に、0点と柱aの推定柱位置を半径とする円を描くと、やはり各柱位置と対応する円となる。
 竪穴住居外形の半径は、約4mである。想定柱配置円半径は3m前後で、7本の主柱穴が竪穴住居外形と複式炉主軸に合わせて対応している。複式炉の主軸線と竪穴住居の主軸線が合致し、さらに柱位置と竪穴住居掘形の外形がこれと結びついて、この竪穴住居が計画的に企画されたことを示している。
 同様な方法で求めた平面企画は、法正尻110号竪穴住居跡や春田2号竪穴住居跡でも求めることが出来た。法正尻110号竪穴住居跡の場合は、竪穴住居の手前側が直線的に造られているために、掘形線はこの線の内側になっている。また主柱b3と主柱a、さらに主柱c3の位置関係も、竪穴住居跡の周溝と対応している。
 法正尻66号竪穴住居跡では、主軸線上の前庭部側に主柱穴は配置されていない。代わりに主軸線と周溝の交点付近には、周溝に3基の小さな柱穴が並んでいる。法正尻110号竪穴住居跡でもこの付近に小さな穴があった。この部分にある柱穴を柱dとする。この柱穴dは主柱穴ではなかったと考えられる。法正尻110号では手前側の竪穴住居跡掘形は、柱c1と柱b1に対応するように直線的になっている。主柱と竪穴住居跡掘形が対応するのは、主柱に架けた桁・梁に掘形から垂木を渡さなければならないからである。柱穴dを主柱穴に含めれば、竪穴住居掘形と主柱を結ぶ多角形は、0点を中心とする円と対応しなくなる。
 大木10式期前半から中頃では、5本柱式が盛行する。複式炉主軸線と竪穴住居主軸線が合致し、竪穴住居跡の平面形が円形を基調としていることに変化はない。馬場前遺跡86号竪穴住居跡は5本柱式である。複式炉の主軸にあわせて、壁の近くに柱aが設けられている。これが主柱を結ぶ五角形の頂点である。
また石囲部で主軸線と直交させた直線上には柱b1と柱c1が造られている。柱b2と柱c2は、この交点から複式炉の全長に合わせるように奥側で、主軸線と直交させた線上に配置されている。さらに柱aと柱b2、柱c2を結ぶ直線距離も坂田が指摘(坂田2002)するように、複式炉の全長と近似した距離である。複式炉は竪穴住居の主要施設であり、竪穴住居外形と柱間位置、間隔とも密接に結びついていたことを反映している。竪穴住居掘形の中心は、複式炉奥端よりやや奥側の主軸線上である。竪穴住居掘形の外形線は円形を基調としているが、主柱穴を結ぶ五角形に合わせるように、少し凹凸がある。
 このほか、大木10式前半期の段階における複式炉の特徴として、つぎの4点を上げておく。
)篝濺擺錣蓮■唄陲領磴多くなる。
∪舒鷲瑤小さくなり、方形を基調とする。また土器埋設部との境に大きな板石が用いられる傾向がある。
A按輊瑤盧拂垢なり、先端は周壁から離れて小さく尖る形態が多くなる。
ち按輊瑤亮蠢安Δ肪譯笋配置される。などである。
 4本柱式は大木10式期中頃を中心とした竪穴住居跡である。基本的な平面企画はこれまでの方法を踏襲して、複式炉の主軸線と竪穴住居掘形の主軸は合致している。この場合、柱aは設けられていない。竪穴住居掘形の中心点も主軸線上にあり、土器埋設部から少し奥側である。
  竪穴住居の掘形は、円形を基本としているが、主軸を結ぶ梁・桁の形状に合わせて方形気味になっている。また面柱dと主柱b1・c1と結ぶ直線を設定した多角形を想定して0点を求めても、竪穴住居掘形の外形線が0点と対応しないことは、5本柱式などと同様である。これは柱穴dが、主柱穴ではないことを示している。
 4本柱式では、5本柱式と同様に主柱穴を結ぶ矩形の中心と竪穴住居外形の中心0点が合致しない平面企画で造られた竪穴住居も出現する。これを4本柱B式とした。また、合致する竪穴住居跡を4本柱A式とした。4本柱A式は、柱b1と柱c1を結ぶ直線が複式炉の石囲部の上を通る特徴がある。これに対して4本柱式Bは、同様の直線がこれより土器埋設部に近接して造られる傾向にある。4本柱A式は、馬場前46号、65号、110号などである。B式は馬場前116号などである。
 3本柱式は、大木10式中段階から新段階の竪穴住居である。複式炉の退化傾向は進行する。石囲部は板石を用いた石組みに変化するものも出現する。この段階でも、複式炉と竪穴住居の主軸線は共通で、柱b1と柱c1は、土器埋設部付近で軸線と直交させ、この直線上に配置される。さらに軸線上に柱穴aが配置される。主柱穴を結ぶ直線は、柱穴aを頂点とする二等辺三角形を描く形である。また柱穴dは前庭部の手前端に設けられている傾向にある。
 同じく0点だけを持つものを3本柱A式、0’点のある方を3本柱B式としておく。3本柱A式で0点は、土器埋設部か、それより少し奥側に想定される場所である。主柱穴は側壁と離れた位置にあり、柱b1柱c1も同様な間隔を置いて側壁から離れている。3本柱B式では、柱aが竪穴住居掘形の端に位置している。主柱の梁・桁が水平になっていれば、この部分は側壁と重なる部分であり、竪穴住居には側壁が設けられていることになる。柱b1と柱c1を結ぶ直線は、土器埋設部付近を通る位置に設けられている。柱b1と柱c1は壁から離れた位置にある。また0点は複式炉の中軸上で、柱b1柱c1を結ぶ交点付近に位置している。
 この3本柱B式の馬場前45号竪穴住居跡では、柱穴aを含めて同規模の壁柱穴が7基検出されている。前庭部側に壁柱穴はないが、この中央に壁柱を配置すれば、壁柱を結ぶ直線は整った八角形になる。実際には前庭部が側に壁柱穴は設けられていないので、この部分が出入口となっていたのであろう。また壁穴は整った配置で、主柱穴と同程度の規模で数からすると、壁柱が上屋を支え、主柱は形骸化していたのかもしれない。
 3本柱B式で注意しなければならないのは、4本柱式や5本柱式では、柱穴を結ぶ形状に竪穴住居掘形の形状が影響されているのに対して、3本柱式ではそのような点が伺えないことである。竪穴住居の外形が、決して三角形を基調とはしていない。これは竪穴住居に側壁が設けられていたことの反映であろうか。竪穴住居掘形・周堤壁の高さを合わせて、人の背丈より高い周堤壁は平坦地では想定することは難しいとすれば、さらに立ち壁を想定しなくてはならないことになる。馬場前45号竪穴住居跡の壁柱穴は、これを示している。そうすると主柱は、形骸化した存在となっていたことになる。3本柱A式には、法正尻68号・69号、馬場前31号、越田和25号等がある。
 このほか、柱穴の設けられない竪穴住居跡もあるが、これは小型竪穴住居跡が大半である。やはり、竪穴住居跡の外形と結びついて、複式炉の主軸線上に0点を求めることができる。主柱が無いので、竪穴住居掘形に周堤加えた高さを壁にして、その上に扠首構造屋根を基本とする屋根を被せたのであろうか。
 ここで検討した検証方法の手順をまとめておく。
ー詑図を基に複式炉の主軸を求める。このとき柱aがその延長線上にあれば、これも含めて主軸線を求める。
⊆膽瓦板掌鬚垢訥樟上で、左右に柱bと柱cを求める。
C┠螻扱舛涼羶瓦魑瓩瓠△海譴鮹羶瓦吠媛爾泙任鯣招造箸垢覬澆鯢舛。この中心をは主軸線上にあり、これを0点とする。
い弔に柱穴を結ぶ多角形の重心を求め、これを中心に柱穴推定位置を半径とする円を描く。この中心点が0点と合致すればそのまま0点とし、合致しなければ0’点とする。0’点も主軸線上にある。
ズ鄂涵紊凌篦螳銘屬繁寨茲琉銘屬砲聾躡垢あるから、全体の関係を検証する。
 この手順で作成したのが図5である。図示した以外に、法正尻遺跡、仲平遺跡、越田和遺跡、四合内B遺跡、春田遺跡、上ノ台遺跡などの竪穴住居跡で検証を行った。

6 縄文時代中期後半の竪穴住居跡復元

 竪穴住居跡から竪穴住居の復元研究は、関野克による登呂遺跡(日本考古学協会編1949・1954)と平井遺跡(平出調査会1995)における藤島亥治郎、岡山県沼遺跡における焼失住居跡を元にした渋谷泰彦の研究(渋谷1957)により基礎が造られた。この後、発掘調査技術が、遺構の認識と記録方法において急速に進歩し、遺構の細部にわたって注意深い調査が実施されることである。これを受けて、宮本長二郎や石野博信などの研究(宮本1996。石野1990)として総合的な研究成果を産みだしている。
 さらに近年は、黒井峯・中筋遺跡など(渋川市教育委員会1988・子持村教育委員会1992)から古墳時代土屋根構造の竪穴住居跡が知られるようになり、縄文時代においても土屋根構造の可能性を意識した発掘調査が実施されるようになった。岩手県御所野遺跡などである。これとともに登呂遺跡や平出遺跡の茅葺き屋根構造に対する見直しが進んでいる。また建築部材の出土例も増えている。遺構の詳細な発掘調査成果、出土部材を組み合わせての竪穴住居研究が発掘調査の現場で進められている。
 竪穴住居の上屋構造については、現物が遺存していないことから、下部構造を基にした上部構造の平面配置と民俗・民族例加えた推定復元が行えるにすぎない。この制約から多種多様な復元推定案を考えることが可能である。判断に迷うこと、判断できないことも少なくない。いくつもの可能性から、ひとつひとつ根拠を重ねた復元が進められるべきである。
 竪穴住居の上屋構造は、大きく分けると二つの案がある。ひとつは扠首構造の屋根をそのまま竪穴住居の掘形に載せる渋谷文雄の考え(渋谷1982)である。もうひとつは、主柱がある場合は梁・桁を巡らす束構造を想定する案(都出比呂志1989。宮本長二郎1996など)である。後者は建築史における成果を踏まえた考えで、研究者の多くが、この考えに沿った復元案を提示している。
 渋谷文雄の考えは、小型であれば、問題はない。主柱間を壁に沿って結ぶ直線が、竪穴住居掘形と類相似形とならなくても支障はない。屋根自体が扠首構造ならば、長い扠首に支えを設ける考えは合理的でもある。上屋想定の有力な案であると認識している。これに対する反論は少ない。ところが、渋谷の案で復元された竪穴住居は、松戸市博物館で試みられている以外は、普及していないようである。
 渋谷文雄の復元案で不都合な点、4点を挙げておく。
ー臙豬蠅蓮扠首垂木を支えるにしては強固な造りである。
横垂木で主柱間の垂木を支えるにしても、加重は主柱が受けることになる。これを支えるには桁を主柱に架け渡した方が強固である。特に、土屋根の場合、屋根の傾斜はゆるくなり、加重も増大する。渋谷の案では、土屋根住居の加重を支えるには不利である。
Y字頭柱、渡腮、欠込、大入、包ホゾ、通ホゾ、樋布倉などの木材結合方法(宮本1996)が、縄文時代にも知られている。
ぬ餌歌磴涼┠蟒撒錣任蓮⊆臙譴藁臓Ψ紊魏鵑更渋っ譴箸覆辰討い襦
について、Y字頭柱は、二股になった樹木の幹と枝を利用して横木を受ける構造である。材料となる樹木に制約はあるが、構造的には強固になる。渡腮、欠込は両方あるいは一方の柱材を 打ち削って、組み合わせる方法である。大入、包ホゾ、通ホゾは、ホゾ結合の種類である。掘立柱建物の柱結合、竪穴住居の梁・桁の架け渡しにも使われた技法であろう。ここでは主柱穴が設置されていれば、梁・桁が架け渡されていたとして復元を行った。
 さらに渋谷文雄は、竪穴住居跡の単位長を地面に掘られた竪穴の規模ではなく、上部構造を造る扠首材の長さに求めている。斜めに据えた扠首が地表に投影される長さは、表面上の距離であり、本来は建築学的には扠首の長さを重視しなければならないという考えである。
 これは、渋谷が建築学方法の視点から竪穴住居を捉えた結果であるが、竪穴住居は居住する人々の身体的な大きさによって大きく規制され、これに合わせて作られるのではないだろうか。やはり、竪穴住居自体の平面企画を重視しなければならない。これを基に、上屋の構造が決定されたと考えた方が自然であろう。
 竪穴住居の復元では、発掘調査成果を踏まえた平面企画を明らかにすることから始めるのが一般的である。これを基に柱、壁、屋根を想定してゆくことになる。また屋根構造は、主柱穴が配置されている場合には、宮本長二郎などの復元案(宮本1996)が採用しているように、柱上面に梁・桁が架け渡された構造を想定しておく。
 白河館に復元されている法正尻66号竪穴住居跡を例(白河館2001)に、復元案を検討してみよう。この竪穴住居跡の柱穴と竪穴住居外形は前節で検討した。つぎに、入口と周壁の構造が、竪穴住居を復元する上で重要な要素である。竪穴住居の出入口と推定されているのは、2案ある。復元案1は、複式炉前庭部に想定される考え、復元案2は、前庭部脇に考える案(福島県教育委員会1990a)である。復元案2は、飯舘村上ノ台遺跡の調査で検出されたスロープ状の遺構である。竪穴住居跡の覆土と明確な重複関係が把握されなかっこと、出入りが可能な遺構である点を根拠とした想定案である。しかし、この溝状の傾斜面以外に、附属する対応する施設は確認されていない。さらに他の遺跡でも明確な類例は、確認されていない。
 復元案1の根拠は、つぎの8点である。
〜按輊瑤両果未脇Г瀋まっており、この部分を中心に床面の奥部に続く踏み締まり面の基点となっている。
∩按輊手前側に、柱穴dが確認されることは少なくない。柱穴dは主柱穴の配置関係とは対応していない。またこれより小型である。柱穴dは、主柱穴とは別の役目を持って造られた穴と考えられる。
C苗代町北向遺跡では、この部分に踏み台状の立石が据えられている。
っ┠蟒撒鐇廚亮膽汗上に当たる場所である。この部分の竪穴住居掘形は、他の部分に比べて直線的になっている傾向がある。
ッ┠蟒撒鐇廚亮膽汗上に位置している。
Δ廊イ抜慙△靴堂虻の形状も主軸方向は、掘形の主軸と合致していたと考えられる。すると屋根の奥側は突き出す形態であったのに対して、前庭部側は大きく開く形態が推定されよう。なかでも三本柱式は、この形状以外の想定は難しい。
複式炉をもつ竪穴住居が造られた期間を通して、基本的な平面企画の原則に大きな変化は見られない。
壁溝が、前庭部で途切れる場合をよくみかける。
  銑┐砲茲蝓⊇估口施設は復元案1の位置を想定しておく。復元案1での出入り口は、北向遺跡では、踏み台式の台石である。前庭部で検出される柱穴では、立石の代わりに木柱台や梯子が用いられたのであろう。また小さな穴が並んでいれば、木柱を並べた跡と考えられる。法正尻66号竪穴住居跡では、P17・18・19である。あるいは、この穴は造り替えの痕跡とも考えられる。
 前庭部に出入口の施設を想定すれば、P20とP26には出入口の左右を区画する柱跡と考えられる。またこれと対応してP27とP30が検出されている。出入口の側柱であろう。この4個が柱であれば、主柱b1とc1に架けた梁から横木を渡せば、壁から突き出た屋根を出入口に架けることができる。出入口に庇を設けるのは、風雨や寒さを避ける点で合理的であろう。
 壁溝は、側壁を支える保護材が据えられた痕跡の可能性が高い。所々に柱穴が配置されていることもその痕跡を示している。この種の住居で検出された壁溝の形態は、大きく二つに分かれている。一つは均一な幅、深さの溝が巡っているもので、全体に大きな凸凹はない。もう一つは細長い溝を繋げて全体で壁溝とした形態である。溝幅は一定ではなく、底部も深浅がある。前者では、板材や丸木のどちらでも使用することができるが、後者では板材よりは丸木材に適した壁溝であろう。丸木材の直径に合わせて掘り下げた結果、凹凸の著しい壁溝となったと考えられる。
法正尻66号竪穴住居跡では、側壁の下端に接して壁溝が巡らされている。写真では、外形に不定形な出入りがあり、底部も凸凹が顕著で、浅深がある。中には途切れるように浅い部分もある。細長い溝をつなげた状況である。柱穴は壁溝の出入口付近では50cm前後の狭い間隔で設けられている。これは出入口と合わせて、上屋構造とも結びついているのであろう。これに対して竪穴住居跡の奥半部では、主柱に合わせるように配置されているようにみえる。壁溝に板材。あるいは細木を並べて、要所を壁柱で補強した痕跡であろう。
 壁溝が設けられていない竪穴住居跡では、周壁は、斜面となっていた可能性が考えられる。直立する地土の周壁では、これを支えることが出来ないからである。富山市北代遺跡では、このような想定(藤田冨士夫教示)がなされている。
 上屋を想定するときに側壁の高さを決めることは、根拠が乏しいことから困難である。困難という以上に推定でしかないともいえる。ところが側壁の高さは、上屋構造を決める重要な要素であるから、竪穴住居復元の全体にかかわってくる。

図6 法正尻66号竪穴住居跡復元案

 周壁が高くまで遺存していた一例として、三春町仲平3号竪穴住居跡(三次調査)がある。この竪穴住居跡では、床面から1.6m程度の高さであった。これよりさらに、1m以上も高い側壁が造られていたとは考えられない。本来の深さは、表土部分を加えても、床面から2m程度掘り下げられた深さであろうか。これに周堤が巡っていた可能性もあるが、側壁が2mもの深さであれば、盛り上げて壁高さを加えるというよりは、周囲から流水が侵入しないような防水施設の役目が考えられる。側壁の高さとは、切り離したことを想定すべきであろう。
一方、法正尻遺跡や馬場前遺跡のような平坦地では、表土層の検討でも述べたように、竪穴住居掘形の深さは、表土層と検出面までの深さに、周堤高を加えた高さであろう。法正尻66号竪穴住居跡では、検出面からの深さは最大で34cmと報告されている。法正尻66号竪穴住居跡と同型式、期同型式、同規模の58号竪穴住居跡では、検出面から床面までは70cm、地表面から床面までは1.2m前後であった。仮に、地表面から0.8mの周堤を巡らせば、仲平3号竪穴住居跡(三次)の側壁と近似した壁高さとなる。
また仲平3号竪穴住居跡では、旧地表面直下に近い高さで側壁が遺存していたが、竪穴住居の周囲に排水溝が設けられていた痕跡は確認できなかった。これは土屋根竪穴住居では、このような排水溝は設けられないという指摘(浅川編2002)と合致している。
 この時期の周堤自体が検出された例はない。痕跡と考えられるのは、飯舘村上ノ台24号竪穴住居跡(福島県教育委員会1990a)で検出された竪穴住居掘形の外を巡る小柱列である。小柱列を結ぶ円線は、壁溝と1m前後の幅で竪穴住居掘形を巡り、23基が確認されている。直径10cm前後、深さ40cm程度で垂直になっている。杭の痕跡である。垂木あるいは扠首の先端を支えた可能性と周堤の保護杭の可能性があるし、両方の用途を兼ねることもできる。しかし出入口相当部分にも分布していること、南西縁と東北縁で杭間の間隔に粗密があることから、ここでは周堤の保護杭の痕跡と理解しておく。垂木の支えであれば、間隔もより一定になっていたのではないだろうか。
 屋根材について、法正尻66号竪穴住居跡の調査報告では言及されていない。堆積土もこれを明らかにできる状況ではなかったらしい。複式炉の設けられた竪穴住居の堆積土では、馬場前86号竪穴住居跡の堆積状況は特異である。火災によって廃絶した竪穴住居で、内部から多くの遺物が出土している。
 この堆積土は、通常の堆積とは異なり、竪穴住居掘形の中央上から周辺に向かって堆積している。最下層からは茅(?)、樹皮、クリ、ヤマグワなどの炭化材を含む土層が堆積し、その上に焼土を含む土層が堆積していた。報告では意図的な祭式を想定しているが、日常的な遺物が床面から出土しているので、その可能性は少ないであろう。土層形成の認識は異なるが、この竪穴住居が土屋根であると推定されることに変わりはない。
 土屋根であれば、傾斜角度は茅葺きよりは緩やかになる。土が滑り落ちるのを防止するためである。土屋根構造は、86号竪穴住居跡の最下層に樹皮と茅が含まれていたことから、垂木と木舞の上にこれを敷き詰め、この上に土を載せたことは確実である。この土が最上層となれば、雨水による流出を避けるために屋根はかなりの緩傾斜となり、さらに樹皮や茅で最上部を覆うことになる。岩手県御所野遺跡の復元実験で、土を露出させた土屋根の傾斜角度は、35°が望ましいという報告(一戸町教育委員会2004)がなされている。
 同時に土屋根に使う土は、表土に近い黒土が望ましいという結果が得られている。粘土では、乾燥して収縮によるひび割れが発生し、漏水が生じるらしい。また雨水による浸食を防ぐには、草種を含んだ表土を用いて初夏の発芽期に屋根を造るのが最適であるという指摘(一戸町教育委員会2004)がなされている。
 しかし、黒井峯遺跡の土屋根のように中間に土入れ、その上下を茅や樹皮で挟む構造(麻柄一志の教示)であれば、土の収縮やひび割れはそれほど考慮する必要はない。むしろ黒土よりは粘土の方が有利である。黒土では湿気と微生物の含有が大きな欠点となる。これを避けるためには粘土を乾燥させた方が合理的である。馬場前86号竪穴住居跡の覆土は、多量の焼土で構成されていた。これは焼失時に形成されたと言うよりは、焼土を屋根材に用いた可能性も考えたい。特異な堆積状況と厚い焼土層である。屋根の表面を茅等で覆えば、土屋根の雨水に対する耐久性が格段に向上することはいうまでもない。
 屋根の形状は、複式炉が竪穴住居の南側に設けられていること、これと竪穴住居の主軸が合致することから、これに合わせた軸線が想定される。また複式炉の上部には煙出し施設が必要である。さらに背後にも煙出しを想定した。
 北代遺跡の復元竪穴住居では、湿気の処理が難しく、劣化が急速に進行していた。一方、登呂遺跡ではそれほどではなかった。この違いは、登呂遺跡例では屋根の通気性が極めて良好なことにあった結果であろう。登呂遺跡は、厚い茅葺き屋根であることもあって、湿地に立地するにも関わらず屋根の傷みは少なかった。また炉における焚き火の煙を排出するにも、二方向に排気穴を設けることは有効である。北代遺跡の棟に沿って帯状の排気穴をもう設けた竪穴住居では、薫蒸が実施されているにも関わらず、内部は快適であった。
 複式炉前庭部には出入口が設けられている。この条件から、複式炉の奥側は扇形に垂木が配置され、複式炉側は主軸に直交する垂木配置が想定される。出入口面は、切り妻状の屋根で、平壁となって、その中央に出入口が設けられていたと考えた。以上を基に、上屋を復元したのが図6の復元案1である。まだまだ不確定な部分が少なくない。梁・桁の高さ、組み合わせ方法、屋根の傾斜角度、垂木の本数など、上屋を復元する基本的な条件は推定の域を出ていない。不明な点の多くは、浅川滋男の研究(浅川編2002)などを参考にして復元を行った。
 この復元案と白河館の縄文時代復元住居を比べてみると、つぎの5点が異なっている。
ー臙譴稜枌屬白河館案では、柱b1・c1が前庭部に位置している。
柱aが柱b3と柱c3を結ぶ直線上に置かれている。
C譯癸欧斑譯磽欧琉銘屬大きく前庭部側にずれている。
そ估口が前庭部にない。主柱の認識が異なれば、上屋構造は当然異なってくる。
ゲ虻がカヤブキでない。
 白河館復元案では浮桁を応用した棟梁が設けられているが、これが設けられていたとしても、柱b3と柱c3を結ぶ線上から飛び出すのではなく、柱aを復元案1の位置に据えることによって、浮桁の必要はなくなる。反対側、前庭部でもここでの復元案に合わせて柱bと柱cを結ぶ梁で棟梁を結合し、この先に出入口が設けられることになる。浮桁など、不安定な要素を可能な限り取り除いた復元が望ましいのではないだろうか。
 棟梁が主柱間、あるいは主柱と桁を結ぶ位置に設けられていた可能性は十分考えられる。構造柱は、上下の加重には強固な反面、横方向から加えられた力には、補強を加えなければ脆弱である。これに対しては梁を渡して桁組を補強するのも一案である。桁と梁を三角形とした形状で組み合わせれば、より安定する。また、屋根材にカヤが普及するのは、鉄器の利用が可能になってからではないだろうか。石器で屋根を葺くようなカヤを多量に確保するのは極めて難しい。(村本周三の教示)