2)仏教美術意匠との関係(図4)
笊内37号横穴墓出土鏡板・杏葉に類似する意匠は茨城県霞ヶ浦町風返稲荷山や兵庫県神戸市田辺に見られるが、製作技法や部品の組み合わせからみてこれらより後続することは先述した。
なお鏡板・杏葉に用いられた意匠は心葉形との補完関係が崩れ、縦3列に菱形を組み合わせたもので、三角と菱形を縦に組み合わせた類似の構成は法隆寺献納宝物の195‐7光背に、三段二股蕨手から支持火炎が派生し、蕨手の又部に四角い線刻を施した195‐13光背と類似している。前者は伴う小金銅仏が不明となっているが、後者は法隆寺155号小金銅仏に付属するものである(田澤ほか編1949)。この金銅仏は三山冠を被った菩薩半跏像で、同巧の1号金銅仏(菩薩立像)とともに典型的な止利派の仏像と認識されている。推古31年(623年)銘の法隆寺金堂釈迦三尊像や推古36年(628年)におそらく蘇我馬子の追善供養のために製作された戊子銘釈迦三尊像の脇侍菩薩に類似しつつもより耳の表現が退化しているためこれらに後続する時期の製作と推定され、7世紀中葉頃の金堂四天王像と表現に共通点がある。そうした仏像に伴う光背が笊内37号横穴墓の馬具と酷似する意匠を採用することは、両者が同一もしくはきわめて近い工房で、比較的近い時期に製作されたことを示している(水野ほか1974)。ただし笊内37号横穴墓を含めた棘葉形鏡板・杏葉は、鉄地金銅張を原則とするため、寺院荘厳具にそうした製作技法がないことが問題となるが、止利派の仏像は鋳造技法の上で銅厚が薄く、像底から頭部内に至るまで空洞で、中の鉄心を鋳造後に取り除くという共通点があり、鉄の加工技術と無縁である訳ではない。鞍作止利の「鞍作」姓について、浅香年木氏はもともと鞍作部という手工業部民を管掌する伴造としての鞍部首自身が馬具の製作技術を有したとは限らないことを指摘し、法隆寺金堂四天王像の銘に見える薬師徳保と鉄師マラ古の場合、薬師・鉄師というその本来の職能とはかかわりなく造像に関与しているのと同様、止利の場合も鞍作集団から離脱して、仏像製作を通じて大化前代の官司制に組み込まれていった可能性を想定している(浅香1971)が、上記のような止利派仏像と馬具、それも笊内37号横穴墓出土品との意匠の対応関係から推して、鞍作首は本来の馬具製作と新たな仏像製作にともに携わっていたと判断したほうが妥当である。むしろ仏教寺院荘厳や仏像製作への関与を通じ、馬具の生産体制に転換をもたらしたものこそが止利仏師工房であったと考えられるのである。
よって笊内37号横穴墓出土鏡板・杏葉は意匠のみならず、ともづくりに見る製作技法の合理化についても、馬具そのものの製作環境からくる内的要請というより、同一意匠工芸の膨大な反復使用を前提とする仏教寺院の荘厳作業を通じて志向されたもので、それが同一工房内での馬具生産にも還元された外的要因と見る方が、実際の事例をうまく説明できるだろう。
3)棘葉形杏葉の装着方法と吊金具の形状について
笊内37号横穴墓の杏葉は、八脚雲球の後方ならびに両脇の直角三方に直接懸垂した可能性が高く、残りの交差四方に長方形革帯金具が連結されていたと考えられる。雲珠の方形脚に重ねて凸形の鉤金具を2箇所で鋲留し、脚外にはみ出た金具端の鉤に杏葉を懸垂するが、鉤金具自体には飾鋲を打たない。このような雲珠の脚に直接、3個の杏葉を放射状に装着する手法は、5世紀中葉、列島で最も古い杏葉のひとつに数えられる大阪府豊中市御獅子塚の鉄製心葉形杏葉、これに続く長野県飯田市宮垣外遺跡の鉄製剣菱形杏葉(飯田市教育委員会2000)で現れ、奈良県御所市石光山8号墳では金銅製の剣菱形杏葉3点を放射状に配置し、これに古式の長方形革帯飾金具を組み合わせるようになる(白石他1976)。笊内37号横穴墓例も、基本的にこの延長線上にあるものと考えることができる。ただし杏葉の懸垂方法の細部をみると、雲珠の脚部の形状と吊金具の形状の変化は連動しており、笊内37号横穴墓のような懸垂方法が確立するまでには、以下の諸段階がある。
@ 舌状幅狭の金銅製で、上に1点、下2点の三角形に鋲を配置し責金具で締めるもの
伽耶昌寧校洞・福岡県宗像市沖ノ島7号B・新羅慶州鶏林路14号・愛知県名古屋市熱田神宮・伽耶林石杜邱洞5号・新羅慶州皇南里151号にみられ、いずれも型式としては初期の一群である。なお鶏林路14号墳ではイモガイ製らしい雲珠中央に菊形鋲を飾り、A群との関連をうかがわせる。
A 舌状幅狭で、縦に1〜3点を直列して配置し責金具で締めるもの
福岡県宗像市沖ノ島A・熊本県熊本市打越稲荷山・伽耶安東造塔洞3号2号石槨にみられ、沖ノ島A・打越稲荷山には極端に幅狭な吊金具に菊鋲を伴うが、同様な吊金具・鋲は大阪府海北塚の心葉形鏡板・杏葉に見られる。やや幅広で鋲径の大きものは金東鉉コレクションの伝高霊池山洞一括品や持田56号墳の心葉形鏡板・杏葉にみられる。
B 花弁状幅広で、3〜6鋲を打ち、責金具で締めるもの
奈良県斑鳩町藤ノ木古墳・静岡県静岡市賤機山古墳にみられる。この種の吊金具はむしろ心葉形杏葉・鏡板に伴う場合が多い、藤ノ木では猪目透を伴うが、静岡県島田市御子谷の串金具も同巧の透孔を伴う。賤機山では上3列・下3列の計6鋲を留める。
C 吊金具は鉄製鉤状で責金具を伴わず、方形板を介して辻金具・雲珠脚に重ね鋲留されるもの
愛知県豊橋市馬越長火塚・茨城県霞ヶ浦町風返稲荷山・京都府福知山市奉安塚・笊内37号横穴墓に例がある。このうち馬越長火塚は、辻金具類の脚部は基本的に花弁形で責金具を伴い尻繋の帯に取り付けられていたと考えられるのに対し、四脚の1端を方形にしたものに方形金具を鋲留したものが含まれており、これらの辻金具に杏葉を懸垂したと考えられる。風返稲荷山は辻金具の1脚のみが半円脚で、他は長方形であり、吊金具は方形脚に方形金具の鋲留を介して行なわれている。奉安塚・笊内37号横穴墓はいずれも方形脚のみからなる雲珠・辻金具を伴い後続する。奉安塚では雲珠・辻金具とも破損が進み鏡板・杏葉との懸垂状況に確証を欠くが、鏡板の立聞に鉤金具を二鋲で重ね鋲接した辻金具ないし雲珠の脚端とみられるものが遺存している。現存する辻金具3点は3脚が3鋲留であるのに対し、失われた1脚には2鋲を伴い、脚と同大の方形鉤付金具を重ね鋲留していたと考えられる。白石二子山では方形鏡板の立聞孔が消失し、2鋲で頭絡帯と連結する点が新相を示すが、杏葉は2鋲もしくは4鋲打ちの鉤金具を介して雲珠の脚端2鋲で重ね鋲接していた可能性が高い。
D 吊金具は鉄製鉤状で責金具を伴わず、方形板を介して革帯端に鋲留されるもの
神奈川県伊勢原市らちめん・静岡県榛原町仁田山ノ崎はC例に似るが、子細に観察すると構造が異なり、方形鉤金具は雲珠・辻金具の方形脚に重ね鋲接される構造ではなくなっており、後続すると見られる。らちめん古墳は雲珠・辻金具の詳細が未公開であるが、鏡板・杏葉とも四鋲打ちの方形金具を伴う鉤に懸垂され、方形金具上二隅にも鋲が残っていることから、これは雲珠や辻金具の方形脚端に重ねて鋲接されていたのではなく、革帯端に取り付けられていた可能性が高い。仁田山ノ崎では心葉形金銅透彫鏡板が立聞孔をもたず、革帯を直接鋲接している。一方棘葉形杏葉は、半球形隆起を伴う方形金具を伴う鉤に懸垂されているが、この方形金具は下側の2隅だけに鋲留が施されており、雲珠や辻金具の脚に重ね鋲接されるものではなく、革帯端に鉤金具を鋲接していたと考えられる。この構造は立聞孔の消失と鋲留化に先鞭をつけるものと考えられ、脚への鉤金具鋲接型より後続すると考えられる。
E 立聞孔をもたず、立聞に直接鋲を打ち、じかに革帯や布帯に鋲留するもの
島根県松江市放れ山では、鏡板・杏葉とも立聞に横に並んだ2鋲で留めるが、辻金具・雲珠とも責金具を伴わない半円形脚に1鋲を打つのみで、脚幅と立聞幅の対応関係も既にくずれている。兵庫県村岡町文堂では仁田山ノ崎に類似する心葉形金銅透彫鏡板、棘葉杏葉とも二列鋲で留めるが、現存する雲珠もしくは辻金具は無脚の菊形となっている。群馬県高崎市しどめ塚・道上は、立聞部に心葉形透を囲んで3鋲で帯に留めている。道上では杏葉の他に蝶番金具も出土しており、これらはやがて群馬県高崎市下大島や伝群馬県内出土品のような透彫金銅板の蝶番金具を併用する鋲留に受け継がれ、更に棘花弁状の毛彫杏葉へと受け継がれる。
4)金銅製辻金具
笊内古墳群の報告書では3個出土した辻金具のうち、吊鉤が付く2個を頭絡に装着したと推定している。合計3個では頭絡としても尻繋としても不完全であるが、隣接する38号横穴墓より単独で出土した同形同法量の辻金具を加えて本来4個のセットとみなせば機能するものとなる。よってこれらを「形見分け」の可能性がある一具として扱った。なお島根県出雲市上塩冶築山古墳では心葉形十字文透鏡板付轡に左右各2個づつ、鏡板の立聞部と頭絡のこめかみ部に辻金具を配し合計4個を使用する復元例が示されており(松尾1999)、同様に笊内37号例も、吊鉤がつく2個を鏡板の立聞に、つかないものをこめかみの要に配した復元が想定される。
同一馬具セットを隣接する古墳・横穴間で分割して副葬する例は、それほど多く知られているわけではないが、全国的に散見され、7世紀代では、静岡県榛原町仁田山ノ崎古墳の馬具セットより、棘葉形杏葉と半球形隆起のある革帯飾金具の一部が分離されたと思われるものが、東方900mの榛原町鍋坂3号墳から出土している例がある。こうした「形見分け」の存在は、金銅装馬具を保有した首長の親族関係などを推定する手掛かりとなるだけでなく、飾り馬具の配布が、首長個人よりむしろ特定集団に対して行われた場合があったことを窺わせる。首長権の基盤にある共同体的紐帯など、古墳時代の集団関係を考える上で興味深い現象といえる。
5)金銅製雲珠
笊内37号横穴墓の雲珠・辻金具については、宮代栄一氏の分類(1984)における「3.方形脚系(2鋲)」に分類されるもので、この系列の雲珠・辻金具は、「偏平有稜鉢系」の影響を受けて成立したものと考えられる。和歌山県和歌山市鳴滝1号墳例はその祖型と考えられ、方形脚(2鋲)を等間隔に配置し、鉄地金銅張りの大型鋲と同巧の無文の責金具1本で繋に装着する。宝珠飾や花形座は持たない。また腹部の凹線もない。この次に現れるのは、栃木県石橋町下石橋愛宕塚古墳例のような型式で、すべて方形脚(2鋲)を用い、高く盛り上がった鉢部に宝珠飾と花形座を載せる。その際、鉄地の鉢部の上に鉄地の花形座をのせ、その上から金銅板を被せて金銅板を槌起するという「金銅板一枚被せ」の技法を用いるのが特徴である。これは半円形脚(1鋲)系で責金具を伴う栃木県宇都宮市竹下浅間山例などに見られた「金銅板二枚被せ」の技法より,新しいものと考えられる。責金具は省略され、鉄地金銅張りの2鋲のみで装着する。8脚のものしかなく、全部の脚を等間隔に配置する。雲珠1・辻金具2の組み合わせで用いられた。これらに次いで現れるのが笊内37号横穴墓例のような型式で、頂部の花形座が省略されて、宝珠飾のみになる。最期の段階になると、長野県加増6号墳の辻金具にみられるように、鉢の肩の部分に稜が現れる。この型式では辻金具のみしか確認されていないが、腹部の凹線も消え、全体に小型化する(宮代1993)。
雲珠上面の装飾は棘葉形杏葉を伴う馬装では一般的に見られるが、このような相輪状に細長いものはあまり一般的ではなく、宝珠形のものより退化の進んだ段階と推定される。
6)長方形金銅張革帯金具
この種の金具は、祖型にあたるとおもわれるものが長野県須坂市八丁鎧塚のような打ち出し鬼面文帯金具に求められ、その退化したものが兵庫県神戸市中村5号墳(阿久津1969)で帯金具として出土している。これに波状列点文を追加したものが馬具の尻繋の革帯に採用され、類例は福岡県宗像市沖ノ島遺跡、和歌県和歌山市岩橋千塚、奈良県斑鳩町藤ノ木B組、奈良県御所市石光山8号墳、奈良県御所市市尾墓山、大阪府八尾市河内愛宕塚、愛知県名古屋市大須二子山、岡崎市神明宮2号墳、長野県飯田市御猿堂など6世紀前半〜中葉の例が挙げられる。
大須二子山 f字形鏡板付轡 剣菱形杏葉2 心葉形杏葉2 辻金具 雲珠 格子文革帯金具2以上
石光山8号墳 居木先飾金具2、花弁形杏葉 剣菱形杏葉3 環状雲珠 波状列点文革帯金具26
沖ノ島4・7・8号遺跡 方形波状列点文連珠打出革帯金具8
岩橋千塚 方形波状列点文連珠打出革帯金具
河内愛宕塚 棘付f字形鏡板付轡 棘付剣菱形杏葉 方形波状列点文連珠打出革帯金具20
藤ノ木B組 鐘形鏡板2 居木先飾金具2 鐘形杏葉5、辻金具13 方形波状列点文連珠打出革帯金具50
市尾墓山古墳 居木先飾金具 鞍金具 異形剣菱形杏葉 辻金具 方形波状列点文連珠打出革帯金具70
神明宮2号墳 轡片 鞍金具 方形波状列点文連珠打出革帯金具3
御猿堂 心葉形杏葉 雲珠 方形波状列点文連珠打出革帯金具1
以上をみると、まず6世紀前葉の石光山8号で七脚の環状雲珠から放射状四条に方形波状列点文金具を6・7個ずつ合計26個前後を連結したものが現れる。ここでは鳥嘴形居木先飾金具が出土している。ほぼ同時期頃か後出の大須二子塚古墳では方形に交差文を表現した革帯飾金具となるが、数が少ないので頭絡の部品である可能性がある。ついで河内愛宕塚古墳では棘付f字形鏡板付轡・剣菱形杏葉に伴って波状列点文と隆起を伴う革帯金具が用いられている。棘付剣菱形杏葉は寿命王塚のものが著名だが、同形同大の杏葉が宗像沖ノ島で出土している点からすれば、沖ノ島出土の革帯金具も河内愛宕塚タイプの馬装の一部であったものであろうか。
市尾墓山では轡がはっきりしないが、異形剣菱形杏葉や鳥嘴形居木先飾金具とともに辻金具に鋲で鍛接した状態のものを含め革帯金具が70個体も出土している。なお市尾墓山は継体朝の大臣となった巨勢男人(529年没)の墓とする見解があり、これと同巧の沖ノ島出土品は、継体23年に伽耶で軍事活動を行ない、翌年失政での帰路に対馬で没した近江毛野が供献した可能性なども想像される。
これに後続する藤ノ木古墳B組では、鐘形杏葉・鏡板に伴って合計50個以上というやはり異常に多数の革帯金具が使用されており、鞍の覆輪の構造や鳥嘴形居木先金具の共通などからも、市尾墓山の系譜を引く馬装と考えられる。
よってこの種の金具は最初、金銅装f字鏡板・剣菱杏葉に伴っていたのが、ある段階で楕円・棘葉杏葉のセットに移行したと推定される。半球状キャップ金具も、同様な技術背景を持つものであろうか。ところが大阪府南塚古墳では、おそらく鐘形杏葉とセットをなす、長方形に半球形隆起をもちその両側に縦列3〜4個の笠鋲を打ち両端に刻み目付きの責金具を伴う変則的な革帯金具が短2、長6の合計8点が出土している(近つ飛鳥資料館 1998)。これに類似するのが打越稲荷山古墳の革帯金具で、長方形に半球形隆起を持ちその頂部に1鋲を打ち両端に素文の責金具を伴うものが10点出土している。この金具は以下の@Aに分化するとみられる。
@半球形金具に鋲を打つもの
6世紀末〜7世紀初頭、半球形金具とよばれる用途のはっきりしない金具が存在する。この金具は茨城県東海村二本松古墳で17点、静岡県掛川市長福寺1号墳で6点以上(田村ほか2001)、愛知県豊橋市馬越長火塚古墳で36個以上(岩原・鈴木2001)、埼玉県東松山市冑塚古墳で5点(東松山市教育委員会1969)、岡山県倉敷市王墓山古墳で3点以上、熊本県打越稲荷山古墳でも出土しているほか、茨城県霞ヶ浦町風返稲荷山古墳のくびれ部石棺付近出土馬具に伴って12個以上が出土しており、革帯金具として使用されたとみられる。また奈良県広陵町牧野古墳では同系で六角形のものが87点出土している(広陵町教育委員会1987)。この種の金具は毛彫馬具に伴う円形革帯飾金具に継承されていくらしい。
A方形金具の中央に半球形隆起を伴い、両端は責金具から鋲打に変化したもの
島根県仏山古墳(6世紀中葉)・千葉県小見川町城山1号墳(6世紀後半)などの例からみて金銅装大刀の把手の装飾板に起源があることが予測されるが、6世紀末頃に定型化してくるようで、群馬県高崎市八幡観音塚古墳(群馬県古墳時代研究会1996)・藤岡市白石二子塚古墳(群馬県古墳時代研究会1996)、栃木県石橋町下石橋愛宕塚古墳(常川1974)・南河内町薬師寺御鷲山古墳(水沼・山ノ井1988)、茨城県鹿嶋市宮中野99−1号墳(市毛1970)、境町八竜神社境内古墳、千葉県木更津市金鈴塚古墳(千葉県教育委員会1951)、神奈川県伊勢原市登尾山古墳(立花・手島1999)・横浜市室ノ木古墳(小野山1979)、長野県茅野市金鐔塚古墳(宮坂光昭1986)、静岡県静岡市賤機山古墳・池田山古墳(望月編1968)・榛原町仁田山ノ崎古墳・鍋坂3号墳(榛原町教育委員会1988)・浜松市蜆塚1号墳(浜松市教育委員会1985)、京都府福知山市奉安塚古墳(日本中央競馬会1992)、兵庫県村田町文堂古墳(中村典男1992)・兵庫県和田山町上山5号墳(和田山町教育委員会1988)などの出土例がある。時期的には最後期の前方後円墳である御鷲山・八幡観音塚・金鈴塚が初現で、毛彫杏葉を伴う終末期方墳の宮中野99−1号墳が最も新しく、6世紀末〜7世紀中葉にかけて盛行したと見られる。その分布は兵庫県の但馬域を西限,笊内古墳群を東限とするが、特に静岡県以北の東国に多い。
刺葉杏葉に伴う長方形革帯飾金具のセット | |||||
打越稲荷山 | 環状鏡板轡? | 棘葉杏葉2 | 辻金具1 | 責金具付革帯金具10 | |
仁田山ノ崎A | 心葉鏡板2 | 棘葉杏葉2+1=3 | 雲珠1 | 辻金具2 | 革帯金具7+7=14 |
(鍋坂3号) | (棘葉杏葉1) | (革帯金具7) | |||
白石二子山 | 方形鏡板2 | 変形杏葉2 | 雲珠1 | 辻金具中4・小1 | 革帯金具6 |
笊内37号 | 棘葉鏡板2 | 棘葉杏葉3 | 雲珠1 | 辻金具3+1=4 | 革帯金具13 |
奉安塚 | 棘葉鏡板2 | 棘葉杏葉3 | 雲珠1 | 辻金具4 | 革帯金具8 |
文堂 | 心葉鏡板2 | 棘葉杏葉4 | 雲珠1 | 辻金具3 | 革帯金具2 |
花形鏡板・杏葉ともづくりセット(車輪文含む) | |||||
八幡観音塚B | 花形鏡板2 | 花形鏡板2 | 雲珠・辻金具 | 革帯金具14 | |
下石橋愛宕塚 | 花形鏡板2 | 花形杏葉1 | 雲珠1 | 辻金具4? 2 | 革帯金具6? |
御鷲山 | 素環鏡板轡 | 辻金具1以上 | 革帯金具2以上 | ||
八竜神社 | 鏡板? | 車輪杏葉3 | 雲珠? | 辻金具4 | 革帯金具5以上 |
蜆塚1号墳 | 花形鏡板2 | 花形杏葉2 | 鈴付雲珠1 | 鈴付辻金具5 | 鈴付革帯金具9 |
金鈴塚 | 花形杏葉? | 花形鏡板? | 革帯飾金具18 | ||
賤機山古墳 | 花形杏葉? | 花形鏡板? | 革帯飾金具 | ||
鐘形鏡板・杏葉→鐘形鏡板・心葉形杏葉セット→心葉形ともづくりセット | |||||
南塚 | 鐘形鏡板2 | 鐘形杏葉 | 雲珠 | 辻金具 | 責金具付革帯金具 |
藤ノ木B組 | 鐘形鏡板2 | 鐘形杏葉 | 雲珠 | 辻金具 | 革帯金具50以上 |
室ノ木 | 鐘形鏡板1 | 心葉杏葉 | 雲珠1 | 辻金具2 | 革帯金具10 |
上山5号 | 心葉鏡板2 | 心葉杏葉3 | 雲珠2 | 辻金具中3小5 | 革帯金具13 円形金具12 |
登尾山 | 心葉鏡板2 | 心葉杏葉2 | 雲珠1 | 辻金具? | 革帯金具3 |
池田山2号 | 心葉鏡板2 | 心葉杏葉3 | 雲珠1 | 辻金具8 | 革帯金具1 |
金鐔塚 | 心葉鏡板2 | 心葉杏葉2 | 雲珠2 | 辻金具? | 革帯金具3 |
毛彫り馬具に伴うセット | |||||
宮中野99-1号 | 方形鏡板2 | 毛彫杏葉 | 革帯金具1 |
このうち注目されるのは仁田山ノ崎古墳と鍋坂3号で、鍋坂3号に持ち込まれた杏葉1枚と革帯金具7が仁田山ノ崎と同一セットに由来したとすると、側面の一連の帯が切り取られた可能性が高く、合計3点の杏葉、14点という革帯金具の数は笊内37号横穴墓の杏葉3、革帯金具13個に近い。仁田山ノ崎の本来の馬具セットと笊内37号横穴墓のセットは近い構成であった可能性がある。
また上山5号例は、車輪文の心葉形鏡板と斜格子文の心葉形杏葉3枚を組み合わせている。杏葉は宝珠形飾のある雲珠の8脚のうち、両側・後方の方形3脚端に1鋲で連結された細長い鋲打ちのある鉤金具に懸垂されていたとみられ、他の交差脚には半球形隆起のある長方形革帯飾金具が連結されていたとみられる。ここでは革帯金具の脚端はいずれも1鋲打ちで雲珠の脚端と対応している。
なお上山5号のような車輪―斜格子文鏡板付轡は通常銜留部にキャップ状金具を伴っているが、8鋲(京都府亀岡市鹿谷古墳群)、6鋲(千葉県城山1号)、4鋲(福岡県新延大塚、岡山県王墓山、奈良県烏土塚、栃木県大山瓢箪山、2鋲(関西大学蔵品、静岡県袋井市春岡2号)、キャップ無鋲化2鋲(茨城県風返稲荷山B)、キャップ状隆起消失・無鋲化(上山5号・茨城県境町八龍神社)という変化がたどれ(桃崎2000)、これらも含め風返稲荷山B、埼玉県冑塚が半球状金具、八竜神社は半球状隆起付革帯金具を伴っている。すると、革帯金具・長方形革帯金具両者を伴い、TK217型式の須恵器を共伴した上山5号はTK209段階の風返稲荷山B・埼玉県冑塚と八龍神社の中間に位置付けられ、キャップ状隆起を伴わない鏡板構造の共通からも笊内37号横穴墓とほぼ同時期とみなしてよいだろう。
7)爪形飾金具
帯の端部に装着し、袋縫いを施した端部の補強のために取り付けられたと思われるもので、金銅装馬具を出土する古墳ではごく一般的に出土する。東日本では千葉県成東町駄ノ塚古墳や群馬県高崎市八幡観音塚古墳のもの、西日本では兵庫県八鹿町箕井谷2号墳、京都府久美浜町湯船坂2号墳が代表例として挙げられる。