〔27〕 笊内6号横穴墓出土矢の復元について 清喜 裕二
刀子と同じく、筆者は考古学の立場から、矢に関する復元作業のうち、矢の基本的な復元案の作成を担当した。以下に、その復元案の作成過程を述べていくこととする。
図1 矢の復元案
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1 復元対象品の所見
刀子と同じ機会に、矢の復元に関する情報も得ることとなったが、復元対象となっているのは笊内6号横穴墓出土鉄鏃のみであり、矢それ自身については何らの痕跡も残っていなかった。よって、鉄鏃についてのみ観察を行い、矢の構造については他の資料から復元のための情報を得ることとした。
鉄鏃は扁平で大型の製品である。全体的に錆で覆われているため、刃の範囲、正確な細部の形状は明らかにし難い。断面は、茎基部付近でもっとも厚く、鏃身の縁に向かって徐々に薄くなっている。縁に向かって薄く叩き延ばして製作されているものと考えられる。刃の研ぎ出しの状況などは不明である。また、鏃身には、ハの字形になるような2箇所の打ち抜きによる穿孔が認められた。
2 矢の類例
矢の構造については、全く情報が得られなかったため、現在知られている矢の資料から、その構造を検討することになった。しかし、通常古墳の調査を行った場合、鉄鏃のみが遺存し、矢の大半を占める有機質部位は腐朽してしまっていることが常である。そのため、古墳出土の矢で、構造まで検討できる例は極めて限られる。筆者が管見に触れた限りでは、大阪府土保山古墳例(1)、栃木県七廻り鏡塚古墳例(2)、奈良県円照寺墓山1号墳例、三重県石山古墳例、千葉県手古塚古墳例が知られるが、円照寺墓山1号墳例・石山古墳例・手古塚古墳例は復元案作成という観点からは、詳細が不明なので、前二者の例について検討を行った。
土保山古墳例は、粘土槨に納められた2号木棺内から出土した。矢柄自体は遺存しておらず、矢柄に塗られていた漆膜が棺内一面に認められていた。矢羽に関しては、2枚立・3枚立・4枚立の3種類が確認されている。また、矢羽を矢柄に装着するための糸巻きは、2枚立のものは2箇所、3枚立・4枚立は3箇所で巻き付ける例が多いようである。骨製らしい矢筈も1点出土している。
七廻り鏡塚古墳例は、舟形木棺内から出土している。完形品は検出されなかったが、鉄鏃を含めた推定全長は80〜85pと考えられている。また、各部位についてはかなり詳細が判明している。矢柄は現存径7〜8o程度で、黒漆が塗られていた。矢羽については、確認されたものはすべて2枚立で、両端を細い樹皮で固縛し、その間は漆で接着している。矢筈は、別素材の部品を取り付けたものではなく、矢柄の端部を刳り込んで作り出している。
なお、矢柄の材質はヤダケと考えられている。
また、ある程度構造が判明する矢の古墳出土例は、極めて僅少であり、完形品は皆無である。よって、時代は下るものの明確に構造が判明する、正倉院の矢について見ておきたい。矢柄にはシノダケが用いられ、漆塗りで仕上げられている。矢筈は、七廻り鏡塚例同様、刳り込みによって作り出されている。矢羽は、現状では失われているが、『国家珍宝帳』の記載では、鷹・鷲の羽根や雉の尾羽などが装着されていたようである。
3 矢の復元案
矢の復元案を図1に示した。2で概観した内容に基本的に沿いながら、使用する素材は特定せず、入手の問題もあるため幅をもたせた。また、各部位の細かい数値も、入手した材料によっても左右されるため、あくまで目安としている。
鉄鏃は、特に端部の形態を復元した。先端は、現状より尖り気味にして、縁辺部は刃を研ぎ出す。逆刺は先端を欠いていたが、尖った端部として復元した。刃の厚さは最大3o程度として、縁辺部に向けて徐々に薄くしていく。茎は基部で4o四方程度とし、先端に向かって徐々に細く仕上げていくようにして、矢柄への装着を配慮した。復元対象の鉄鏃は箆被がないため、矢柄の先端を縦割りにして、割れすぎないように入るところまで茎を挿入する方法を考えた。
構造としては、全長75〜80p程度としているが、鉄鏃が全長21pにも及ぶ大型品であるため、全体のバランスが問題になる。当面類例が知られている範囲内の長さに納めたが、矢柄が短すぎて違和感がある場合も考えられるので、長さはあくまで目安である。矢羽は2枚立とし、矢筈は刳り込みにより作出することとした。
なお、各部位の材質の候補は、以下のとおりである。
・矢 柄 シノダケもしくはヤダケ
・樺巻き 桜の樹皮(鏃を直接緊縛する糸は、絹もしくは苧麻)
・矢 羽 鷲・鷹・山鳥・雁・雉・隼など
4 復元案を作成して
刀子の復元案の中でも触れたが、直接特定の遺物の形態・製作技術を踏襲する形での復元ではなかったため、筆者個人の認識不足などで、最後まで復元に足る十分な復元案と図面を提示できなかったことを、反省点としてあげておきたい。よって、復元製作者の工夫で、最終的に復元品が完成しており、上述の復元案とは必ずしも一致しない部分もあるかと思われるが、今後のためにも、敢えて当初考えた不備の多い復元案を提示することにした。
通常作成する実測図と復元製作用の設計図は、内容的に重複する部分と別物である部分があるかと思われるが、両者が全く異なるものとは思われない。通常の実測の際にも、設計図を作成するような視点で観察・表記をすることで、より出土遺物に対する理解を深められると思われる。その意味でも、初めての経験で反省点ばかりではあったが、資料に対峙する姿勢の面も省みる良い機会となった。
註
(1) 高槻市史編さん委員会 1973「土保山古墳」『高槻市史』第6巻 考古編 高槻市役所
(2) 大和久震平 1974『七廻り鏡塚古墳』 帝国地方行政学会