〔17〕 出土しない敷物、紐、革製品を復元する     押元 信幸

写真1 復元馬具の仮組み

1 復元品に至るまでの経緯

 出土していない有機質の部分は、想定で作らざるを得なかった。出土した金属製品と見合う繊維品の色や装飾文様・革質・革色を決める有効な手段が見つけられなかったので、想像以上に仕様の決定に手間取ってしまった。  実際に全体が組み上がってくると、どうしても目に入るのは、面積の大きい繊維品や皮革製品の色味であり質感であった。
 基本的には時代考証に適した埴輪をモチーフに馬装具を決定しているが、どうしてもディテール部分や色・材質などは、現存する最古の馬装具である正倉院の鞍に頼り、試作を繰り返した。
 しかしその後、正倉院鞍と時代考証が合わないのと、天皇の使用した鞍に準じるのはおかしいのではという意見があり、正倉院の鞍にあまり頼らない形を取らなければならないと考えた。
 初期の段階では、当時の色をいろいろな資料(1〜3)から参考にして、紅(クレナイ)や緋(あけ)=浅緋の色などが適しているのではと考えていた。そのような色の絹などで試作品を作っては見たが、仮組段階でのあまりの違和感に、採用を取りやめた経緯があった。
 最終的な復元品では、手綱や腹帯の紐類も同様に、無理に根拠を探しても、なかなか最後まで収まるものではないと思われたので、極力主張のないと思れる無地で生成の麻を使用し製作した。
 皮革の種類の選定であるが、正倉院でも多く使用されている牛革の使用(4)ぼ問題はないが、障泥などのその他の皮革は、多種類に及ぶ皮革を断定できなかった。今回は、障泥が2枚十分に取れる大きさの輸入牛革を使用した。

 

2 正倉院の馬具、中世の馬具
 正倉院には聖武天皇の遺品と大仏開眼会用物が納められており(5)、それらは今回の古墳時代の馬装具を想定する上で、貴重な資料になると考えられた。
 正倉院の馬具は、全部で十具ある鞍橋の他に、鞍褥などの繊維品、障泥等の革製品などをはじめ、すべての馬具一式が当時の状態をよく残している。古墳時代の馬装具と平安時代の馬装具の間をつなぐものとしては、大変貴重な文化財である。
 正倉院馬具の特徴としては、鞍橋の材質が素地そのままで黒漆塗りを施さずにある点が上げられる。また居木は四枚居木であり、鞍橋との木組みがきわめて複雑な構造をもっていて、革紐によって結縛されている柔構造をしていること、またの孔は後輪のみで前輪には観られないこと、繊維品の 多くは麻が使用されていることなどが、今回参考になった正倉院の特徴である。また鞍褥の内容物の記述(5)からも、今回復元した出土しない馬装具の材質選択の決め手となるものが多く観られた。
 中世の平安時代には、儀仗用としての唐鞍や官人が公用に使用したと言われる移鞍などの種類が出てくる。主な特徴は、両方共に鞍橋の外側を黒漆塗り、内側が朱漆塗りであり、両輪に覆輪の装飾を持つなどして、この時代に日本の馬装具が完成されていったといわれている(5)
 日本独自の鞍や鐙にくらべると独自性が少ないと言われている轡も、中世になると銜のずれを防ぐ鏡板や鏡板の上部に面懸に繋ぐ為の(立ち聞き)手綱を繋ぐ長い引手や、引手と鏡板を繋ぐ遊金(あそびがね)などが完成され、江戸時代まで受け継がれたといわれている(6)
 しかし、日本の馬具の歴史において、古墳時代は大陸の騎馬術を取り入れて間がなく、大陸のものを模したものが多く、日本独自の馬具の形式はまだ創り出されていない状態であると言われている(7)。また聖武天皇の御物という当時最高権力者であったろう方のものと、北の果ての地方豪族のものを同列に扱うことはできないという予想から、この正倉院の貴重な資料も参考に留めておかなければならなかった。

3 現代の革事情
 東京都の墨田区にある東京都皮革研究所における取材により、現在日本で生産される皮革は豚革以外、ほとんど海外からの輸入に頼っている状況であることが把握できた。また古代の皮革製造の再現実験は今回の対象にはしなかったので、市販の輸入皮革で代用した。
 当時の革製品の製作方法を表している記述としては、「延喜式」の中の「内蔵寮式、造皮の功」に「鹿の皮一張り、長さ四尺五寸、広さ三尺、毛を抜いて干しさらすのに一人、膚肉(りょにく)を除き、水に浸すのに一人、削りて干し、脳を和え、槎り乾かすに一人半」と記載されている。
 これに近い皮革製法は、かなり最近まで東京でも行われていたそうであるが、公害問題などの理由で、一般には廃止されたとされている。

写真2 障泥を掛ける

4 障泥について
 古墳時代の埴輪には、確かに障泥が写されている。障泥として現存している最古のものとしては、正倉院の馬装具の中にあり、私の知る限り日本では古墳時代のもので、有機質の部分は現存していない。
 正倉院の障泥は「表は熊皮を用い、裏には布張りし、黒漆塗りであるという。毛はほとんど抜け落ちており、腹帯を避けるように、両肩が山のよ 、にせり上がっている。もう一点は、花の文様が、線描によって描かれている。ただし形は前記のそれとは異なり、丸みを帯びた四角形をしている。」という(4)。つまり、熊の毛並みを楽しみ、花の文様の加飾を施しているということである。
 その後時代が下り、平安時代に金銅装障泥などが作られている点などから考察できることは、障泥は単に泥除けとして機能していると考えるよりも、機能面と装飾面、両方の要素を多分に含んでいたのではないかと考えられる。
 今回の障泥は、牛革の素材を用いた。(写真2)これはあまり毛皮の種類等に特別な意味を持たせるべきでないと考えたためである。革の厚みは、4o〜5oで撓りや、型くずれが起きないように、硬めの鞣し革を使用した。
 形は、正倉院の第6号鞍の障泥に近い形を取った。理由は何点かの埴輪を参考にしていく中で、もっとも主張の少ない形と思われたからである。左右の二枚の障泥と幅25〜27oの革帯を4o角の革ひもで結んで止めた。革帯で2枚の障泥を連結したのは、どこにも根拠がないことであるが、実際に乗れる馬装具を想定しているので、皮紐や麻紐では少し強度的に不安があったからである。結果的に、装飾面を考察することを避けた障泥になったのは残念な点である。
 考古の研究者からは革帯と障泥を縫い合わせて、障泥の周囲にステッチを入れると言う案であったが、今回は革帯の結縛を縫い合わせないという方向で統一していること、皮の周囲のステッチの目的(例えば2枚の革を合わせている様なときは、必要と思われた)が不明瞭であったので革ひもで結縛する仕様に変更した。
 また障泥は鞍の居木を跨ぐように設置し、取り外しが簡単に出来るように工夫した。

写真3 藁茎
写真4 真綿
写真5 下鞍に鞍を乗せる

5 下鞍について
 下鞍の必要性は、つい最近まで農耕馬に乗る木鞍の下にも座布団のようなものを敷いていた、という事から見ても、馬の背と木鞍の間には何かしらの緩衝材が機能上で必要であると思われたからである。
 下鞍のデザインは埴輪にある模様を参考にして、下鞍に刺し子文様をつけることにした。正倉院第6号鞍に観る下鞍は、表面を皺革で包み、芯には藺草の茎・木の葉・白麻などを重ねて裏側に白革が多いと記載されている(4)
 復元品では、表面から黒の麻布・粗めの麻布・真綿・馬の縦方向の藁茎・同じく横方向の藁茎・真綿(写真3)・白麻として、これらを縫い合わせるために刺し子の文様を設けた。文様は正倉院の第8号鞍の文様を引用している。形は、鞍のちょうど一回り大きくして腹帯の通る位置に切り込みを入れた。

6 鞍褥(下)について
 鞍褥は、鈴鹿市寺谷17号墳出土の馬の埴輪にならい、上下二枚に分けた形式をとった。鞍褥の下にあたるこの部分はの形状も埴輪にある模様を参考にした。刺し子模様は桃崎氏の図案をそのまま引用した。
 芯材には正倉院第6号鞍の鞍褥に使われている(黄色氈・白色氈)を参考として(4)毛布を2枚使用し、表地側には朱色の絹で、裏地側を麻で袋状にして製作したが、実際組み上げた時に紅い色が突出してしまったので、表面を生成の麻布に差し替えた。

7 鞍褥(上)について
 直接座る部分である鞍褥は、埴輪(8)や正倉院の鞍褥にあるような楕円形に近い形とし、柔らかな表情をもつ鹿革の代用として、同じような軟らかな鞣しの牛革を選んだ。
 刺し子模様は入れずに、縁を約10o折り返し縫い合わせた。この革は鹿の皮に近い厚みと柔らかさのものを選んだので、切断したままの状態では余りにも頼りなく、全体に対して締まりのない感じであったからである。
 正倉院第6号鞍で一番上になる鞍褥は、鹿革のように見える風合いで、燻しをかけて白抜きの花鳥の模様をつけている。そのような複雑な模様の表現は、埴輪のなかには観られないが、縁のステッチ表現に似た文様などや、刺し子文様などの表現がなされている。
 しかし元来、刺し子とは何らかの意味で一枚の生地強度では足らないので、重ね縫いや単に縫うだけでも強度をつけられるという事に始まっていると考えられるので、今回のような一枚の薄い革に縫い目を多少入れても、機能的には変わらないと思われたからである(今回の皮の場合単に縫うだけで強度を高められるという事はなかった)。今回形状を参考にしている正倉院第6号鞍の鞍褥は、中に詰め物をしてある構造なので刺し子が施されている。

8 力革について
 力革については、桜の木からくりぬいた木製鐙の重さを支えられる強度と、鐙の高さを調整する事が必要であると考えた。
 参考にした正倉院第一号鞍では力革を鐙靼(みずお)と具(かこ)で繋いで、鐙を装着している。力革は白の牛革製で、鐙靼は黒革であると記載されている。鐙靼は三重に折り畳み責め金で締めていて、長さを調節できるようになっていた。調整に必要であると思われた具(バックル)は、その古墳からは出土されていないので正倉院第8号鞍のように責め金具を革ひもで代用し、革による結縛法により 恁ウ品の力革の長さ調整に当てはめて製作した。この結縛方法は他の障泥の革の結縛などにも使用している。(10)

写真6 鞍褥を装着する

9 手綱その他
馬を制御するために無くてはならないのは手綱である。この遺物にも手綱を繋ぐ轡が埋葬されている点から考えても、手綱の存在は明らかである。
 手綱は推定復元によるものであるが、唯一の出土例の群馬県綿貫観音山古墳から出土した手綱を参考に、桃崎氏の提案通り決定した。形状は幅50oの袋帯にして詰め物をしないでそのままで使用した。長さは、実際に乗った状態で持ってみて決めている。これは腹帯にも同じものを流用している。

参考文献
(1) 長崎盛輝『色・色彩の日本史』淡交社刊 1990年6月
(2) 高田倭男『服装の歴史』中央公論新社刊 1995年4月
(3) 村上道太郎『色の語る日本史』そしえて刊 1985年9月
(4) 日本馬具大鑑編集委員会編『日本馬具大鑑 第1巻』図版解説48p 日本中央競馬会刊 1992年2月
(5) 鈴木友也「古代日本の馬具」『日本馬具大鑑 第2巻』日本中央競馬会刊 1992年2月
(6) 馬の博物館編『馬具の歴史』(日本の轡)展示解説2p馬の博物館編集
(7) 小野山 節「古墳時代の馬具」『日本馬具大鑑 第1巻』日本中央競馬会刊 1992年2月
(8) 千賀 久『はにわの動物園』保育社刊45p、1994年5月
(9) 日本馬具大鑑編集委員会編『日本馬具大鑑 第1巻』31p 日本中央競馬会刊 1992年2月
(10) 押元信幸『〔18〕笊内37号横穴墓出土馬具/復元馬具の調整・組立について』本報告書所収